松方正義
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経歴
生い立ち
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)[3] に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる[4]。父・正恭は、谷山郷士・松田為雅の次男で鹿児島城下士の松方左衛門に養子に入った人物で、大島と鹿児島の貿易によって財を為した[4]。しかし、松方が10歳の頃、叔父の田中清造に貸した金が返ってこなかったことで父は生活苦に陥り、幼い松方は貧困の中で育った[5]。さらに、10歳の時に母を、13歳の時に父を亡くした[6][5]。
弘化4年(1847年)、藩士の子弟が通う藩校「造士館」に入る[7]。この時期に朱子学や水戸学などの学問を通じて尊皇思想を育んだ[8]。
嘉永3年(1850年)、16歳のとき、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された[9][10]。
薩摩藩士時代
文久元年(1861年)、27歳で御家老座御帳掛書助役となり[11]、文久2年(1862年)に藩主・島津茂久の父・島津久光の出府に際して御先定御供を命じられ、名前を正作と改める[11]。さらに同年6月に江戸藩邸において助左衛門と改名[11]。
この時に久光の側近となったことが藩官僚として出世するきっかけとなった[11]。この後の久光の薩摩への帰国にも同道したが、この際に久光の行列の間に割って入って通過した英国人3人に激昂した薩摩藩士・奈良原喜左衛門が斬りかかって1名死亡、2名負傷させた生麦事件に遭遇した。騒然となって藩士たちが続々と現場にかけつけたので久光の駕籠の周りは無人となった。そのため松方が大声で供回りの者を呼び戻して警護に当たらせた。西郷隆盛は後にこの時の松方の冷静さを称賛していた[12]。
文久3年(1863年)5月に御小納戸勤役となる[13]。さらに6月に議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった[13]。これ以降常に久光・茂久の側にあって藩政の枢機に参与した[13]。しかし、低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいたという[14]。
京阪にあった大久保利通とは緊密に連絡を取り合った。彼は一貫して大久保を兄事していた[15]。この大久保との親密な関係が明治以降松方が政府の中で大きな役割を果たすきっかけとなる[16]。
慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される[16]。慶応3年(1867年)10月、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けに当たった[17]。12月には乾行丸掛に任じられて小銃購入にもあたった[18]。
この頃、長崎奉行・河津祐邦は配下の振遠隊を使って薩摩藩や海援隊に圧力を加えていたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗を喫したのを知るとフランス船に公金1万7000両を積み込んで逃亡を図ろうとした。これを阻止するため松方は、土佐藩の佐佐木高行と連携して長島奉行所を占領。公金を返還しない場合には断固たる処置が下されることをフランス船にいる河津に通告、怯えた河津は公金を返還した[18]。この公金を元手に長崎在留各藩藩士の合議による会議所をトップとした長崎統治体制を整え、長崎の秩序維持と人心安定に努めた[19]。また振遠隊の暴挙を防ぐため、松方は単身でその屯営に赴き、隊長に面会し、厳然たる態度で説諭して帰順させた[18]。この後、長崎裁判所の設置まで長崎の統治は事実上、松方と佐佐木の合議によって行われた[20]。
明治維新後
明治元年(1868年)1月に朝廷より沢宣嘉が九州鎮撫使として送られてきて、2月には長崎裁判所が設置され、沢がその総督を兼務した。松方と佐々木は鎮撫使参謀に任じられたことで新政府に出仕することとなった[21]。松方は3月に長崎裁判所参謀に就任したのを経て、日田県が設置されると大久保の推挙でその知事に就任した(1868年-1870年。慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日)[21]。
殖産興業に務め、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。また日田地方で横行していた堕胎や捨て子の悪習を断つため、養育館を創設して育児事業に乗りだしたり、私財を出して官民の寄付を募る基金を創設したり、捨て子や堕胎をやめさせるための様々なことに対して報奨金を与えたりした[22]。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保の評価を得、その功績、推挙で明治3年(1870年)3月に民部大丞・租税権領に就任し、中央政府へ栄転した[23]。
以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿である大久保の下で地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発で賄ったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。
松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス財務大臣レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)と交流し、彼の助言で、金本位制と中央銀行を中心とする統一的な近代的通貨信用制度の整備の必要性を痛感した[24]。同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、紀尾井坂の変で暗殺された大久保の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。大久保の死は彼の股肱である松方にとって大きな衝撃があった。しかし同時に、松方の台頭を抑える大きな重石が無くなったことも意味した。これ以降松方は自らを財政経済政策面で大久保の遺志を継ぐものと自らを任じ、政府内外にそれをアピールするようになった[25]。
その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」設立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、代わって参議兼大蔵卿に就任した[26]。翌15年に日本に中央銀行である日本銀行を創設した[27]。
松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税、醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった[27]。
なお、現在の日本に於ける会計年度「4月 - 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである[28]。
総理大臣および大蔵大臣として
明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。1888年4月には黒田内閣で大蔵大臣、次いで12月に内務大臣を兼任[29]。
明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて内閣総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。しかし、閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年)8月8日に辞任に追い込まれた。同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる[30]。その後、第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣の大命が下り第2次松方内閣(松隈内閣)を組閣し、内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任するが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈率いる進歩党との連繋が上手くいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。
晩年
日露戦争前の明治34年(1901年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議においては、対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案通りに、山縣有朋、西郷従道らとともに日英同盟締結に賛成している。元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。明治35年(1902年)1月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備のためにアメリカを経由して欧州7カ国へ赴き、イギリスでは戴冠前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。ロンドンタイムズは「松方伯は伊藤侯に次ぐ大政治家であり、日本が政治・経済の面で列国と肩を並べるまでになったのは松方伯によるところが大きい」と論評している[31]。
オックスフォード大学からは法学名誉博士号を授与されている。松方は「自分は横文字も読めず学問もしたことがない、人違いではないのか」と述べて初めは断ったが、オックスフォード大学は「学問は事業をする道を学ぶものなので、大事業を成し遂げた人に贈るのである」と趣旨を説明した[31]。アメリカでは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーや大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世、ロシアでは皇帝ニコライ2世や外相セルゲイ・ウィッテと会見している。特にウィッテとの会見は5時間に及んだ。すでにシベリア鉄道が旅順まで全通している中、ウィッテは日露両国が共同して中国に圧力をかける必要があると述べたのに対し、松方は、日本はロシアとの親交を増進すること以外に関心はなく、日露両国とも産業の発展、国富の増強を図り、武力に訴える行動をとるべきではないと述べて牽制した[32]。
また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。明治36年(1903年)から枢密顧問官。大正6年(1917年)から内大臣を務めた。内大臣時代は大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。宮中某重大事件においては婚約見直し派であり、事件後には責任を取るとして単独で辞表を提出しているが、これは却下されている。
大正11年(1922年)の山縣有朋の死後、元老は松方と西園寺公望のみとなったが、松方は高齢であったため西園寺が主導する形となった。しかし、西園寺が病中であった6月の高橋内閣崩壊にともなう首相選定では主導的立場となり、加藤友三郎内閣を成立に導いた。大正13年(1924年)7月2日、呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)。東京府東京市芝区三田の自邸で国葬が執り行われた。墓所は東京都港区の青山霊園。
1934年(昭和9年)7月2日午後2時に松方公十年祭が青山霊園で盛大に行われ、斎藤実首相以下、鈴木貫太郎侍従長、若槻禮次郎民政党総裁、牧野伸顕内大臣らが出席した[33]。
松方は内閣総理大臣経験者の伊藤博文や黒田清隆、山縣有朋らより年上であり(1835年生まれ。大隈重信よりも年上である)、内閣総理大臣就任時より死去まで最年長の経験者であった。
注釈
出典
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