普仏戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 04:04 UTC 版)
プロイセン軍の攻勢~皇帝捕縛
ヴィサンブールの戦い
捕虜にしたプロイセン兵や地元警察署長からの聴取により、フリードリヒ王太子の第3軍がザールブリュッケンから僅か48km南方のヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク)付近にいる事が分かり、ルブーフ将軍とナポレオン3世は防御的な位置まで退却する事を決めた。フロサール将軍はザールブリュッケンに進出していたライン軍の一部を独断でスピシャランとフォルバックまで急遽退却させた[25]。
この時点でヴィサンブールに最も近い位置にいたマクマオン元帥(第1軍団)は、隷下の4個師団を約32kmに渡って散開させてプロイセン軍の侵攻を待つ形になった。これは補給の欠如によるもので、各師団と本来それらの師団を支援する筈である軍の補給部隊とが一緒になって基本的な物資を探して廻る有様だった。
更に状況を悪化させたのは第1軍団の第1師団長デュクロ将軍(Auguste-Alexandre Ducrot)の言動であった。デュクロは8月1日、マクマオン軍団の第2師団長アベル・ドゥエー将軍(Abel Douay)に対して「私が得た情報では敵は前哨付近に大した兵力を置いておらず、攻勢に出る意思はないと思われる」と話した[26]。その2日後、デュクロはマクマオンに「敵の前哨一つすら発見できていない。(中略)ババリア人の脅しは単なるハッタリと思える」と述べた。デュクロはドイツ軍からの攻撃は無いと見ていたが、マクマオンはなおも他の各師団への警告に努めた。しかしその努力は実らなかった[27]。
普仏戦争における最初の戦闘は1870年8月4日に起きた。第1軍団のドゥエー将軍率いる第2師団と随伴する騎兵部隊は、支援のない状態で国境監視の配置についていたが、ドイツ第3軍から圧倒的ながら統制を欠いた攻撃を受けた。その日を通じて1個バイエルン軍団と2個プロイセン軍団からの部隊が戦闘に参加し、プロイセン軍の砲兵支援も加わってヴィサンブールの防御陣地に穴を開け始めた。
シャスポー銃の正確な長射程の射撃のおかげで、ドゥエーは当初非常に頑強に陣地を保持したが、そのまま支え切るには部隊が薄く延び過ぎていた。ドゥエーは昼前に師団ミトラィユーズ隊の弾倉が近くで爆発して戦死した。プロイセン兵は市を包囲しつつあり、フランス軍は退路を脅かされた[28]。
ヴィサンブール市内での戦闘は極めて激化し、建物を一軒ずつ争う消耗戦となった。プロイセン歩兵の間断ない攻撃にもかかわらず、フランス第2師団は位置を変えなかった。ヴィサンブールの市民は最終的にドイツに降伏した。降伏しなかったフランス兵は死傷者1,000人と捕虜1,000人を残し、残りの弾薬全てを遺棄して西へ退却した[29]。プロイセン兵による最後の攻撃で更に約1,000人の損害が出た。ドイツ騎兵はその後フランス兵の追撃に失敗し接触を失った。攻撃側は優勢な初期兵力を広く展開して包囲を成功させるかに見えたが、フランス軍はシャスポー銃の威力で歩兵攻撃を撃退し続け、フランス歩兵がプロイセン砲兵の猛射を浴びるまで持ち堪えた[30]。
スピシャランの戦い

モルトケは当初、ザール川のバゼーヌ元帥の軍に対して、第2軍で敵正面から、第1軍で敵左翼から攻撃するため、8月6日に両軍をザール地方で合流させる計画だった[31]。そして、バゼーヌ軍を現在地に引き留めて、第3軍が敵後方に回り込んで退路を断つ態勢を構築する意図があった。しかしながら、老将シュタインメッツ将軍はモルトケの計画を知らず、麾下の第1軍は第2軍到着前にザールブリュッケンの前面に至った[31]。
フランス側では、ヴィサンブールでの損害を受けて作戦の練り直しが不可欠であった。ルブーフ将軍は怒りのあまり顔を紅潮させ、ザール川を越えて攻勢に出て損害を挽回する一念であった。しかしながら、軍監察官 Wolff 将軍がザール川を越えての補給は不可能だろうと言ったため、次の対決に向けた計画は、感情やプライドよりも、ようやく見え始めた現実に立脚したものとなった。従って、フランス軍は防御態勢をとることとなり、それはドイツ側からの攻撃が予想される地点を全て守ることとなったため、フランス軍の布陣は広がり、互いに連携しにくい状態のままであった[32]。
ザールブリュッケンにいた仏第2軍のフロサール将軍は、ドイツ軍の動静が不明な状況で、ヴィサンブールでのフランス敗北の報を知り、同地の確保は困難であると判断して放棄し、国境近くのスピシャランの高台に布陣した[33]。仏軍の撤退を知ったシュタインメッツ将軍は、予定外に第1軍を率いてまっすぐスピシャラン(独:シュピッヒェルン)へ向けて南へ進んだ。フリードリヒ・カール王子軍の本隊と、そこから前方展開している騎兵隊との間に割り込んでしまった。
8月6日、マクマオン元帥の仏第1軍がドイツ第3軍とヴルトで戦っていたころ、シュタインメッツ将軍のドイツ第1軍はザールブリュッケンから西へ前進し終えた所であった。フリードリヒ・カール王子のドイツ第2軍から出された斥候が、付近の「おとり射撃」につられて、遠くのスピシャラン町の南の台地の上にフロサール軍(フランス第2軍)を発見し、これをフロサール軍が退却しようとしていると受け取った。ここで再びモルトケの計画は無視されて、ドイツ第1軍と第2軍は、スピシャランとフォルバックの間にて防備を固めている仏第2軍に攻撃を掛け始めた[34]。
戦闘の当初、フランス軍はドイツ軍の数的優位に気付いていなかった。なぜなら、ドイツ第2軍はそれまで総攻撃を行っていなかったからである。フロサールは接近して来るドイツ軍の攻撃を単なる小競り合いと考えており、他の部隊へ増援を要請しなかった。どれほどの規模の相手と戦っているのかをフロサールが認識した時には、時既に遅かった。予備戦力たるバゼーヌ軍とフロサール軍の間の通信はかなり断片的かつ遅くなり、予備戦力がスピシャランへの移動命令を受け取った頃には、既にドイツ第1軍と第2軍が台地に向かって突撃を仕掛けていた[35]。
スピシャランの仏軍陣地は、森の中にあって防御に有利であった[36] が、予備戦力が到着しなかったため、フロサールは、フォルバックで発見されたフォン・グルーメ(von Glume)将軍の部隊が自軍の側背に回り込みつつあり、自軍は重大な危機に瀕していると誤解した。フロサールは台地の防衛を放棄して、日没後に戦闘が終了するまでに南へ退却した。
シャスポー銃の性能により、ドイツ軍の損害(死傷者)はフランス軍より大きかった[36] ものの、翌朝に再び突撃を仕掛けたドイツ軍はそれまでの損害が無駄ではなかった事を知り驚喜した。フロサールは台地の陣地を放棄していたのである[37]。
スピシャランの戦いは、この戦争におけるフランスの3度にわたる決定的な敗北の中でも2番目に大きな敗北となった。
フシュヴィレール=ワシュの戦い
マクマオン元帥のフランス第1軍と、フリードリヒ王太子のドイツ第3軍は、ヴィサンブールの戦いから2日後の1870年8月6日に、ヴィサンブールから16km未満の距離になるフシュヴィレール(Frœschwiller)町のヴルト(ヴェルト)付近で再び激突した。王太子の第3軍は、参謀フォン・ブルーメンタール将軍の迅速な対応により、増援を受けて兵力は14万人に上っていた。フランス軍も増援を受けたが、フランス側の動員は遅く、フランス軍は僅か3万5千人に止まっていた。
フランス側は数的に圧倒的に不利であったのだが、フシュヴィレールのすぐ外側で防御配置に就いていた。午後までに、両軍ともに損害は約1万人を数え、フランス軍は抵抗を続けるのが難しくなった。更にフランス軍にとっては不利なことに、フランス軍防衛線中央の丘の上にあるフシュヴィレールをドイツ軍が奪取してしまった。勝利の望みを失い、皆殺しに直面し、フランス軍は戦線を離脱し西に向かって撤退し、ヴォージュ山脈の反対側にいるフランス軍部隊に合流することを目指した。ドイツ第3軍は退却中のフランス軍を追撃しなかった。ドイツ第3軍はアルザスに残り、付近のフランス軍警備部隊を攻撃して撃破しつつ、ゆっくりと南へ進んだ。
フシュヴィレール=ワシュの戦いは普仏戦争で最初の大規模な戦闘であり、両軍合わせて10万人を超える兵力が激突した。また、この戦いは様々なドイツ諸邦(プロイセン、バーデン、バイエルン、ザクセンなど)が共同で戦った戦いの中でも最初の頃のものの一つでもある。これらの事実により、ヴルトの戦場を「ドイツの揺籃」と呼ぶ歴史家もいる。しかしながら、ドイツ側もこの戦いにおいて無傷というわけではなかった。たとえば、プロイセン軍の戦死傷者は10,500人であった。しかし、マクマオンの状況は更に悲惨であった。フランス軍の損害は19,200人が戦死・戦傷・捕虜となったのである[38]。
皇帝不在のパリでは、相次ぐ敗戦により、8月9日、エミール・オリヴィエ内閣が倒れ、好戦的なシャルル・クーザン=モントバンが首相となった[39]。ナポレオン3世は当初、モーゼル川西部まで撤退を検討していたが、人気の失墜を恐れて決断できなかった[39]。8月13日、新内閣は、モーゼル川東部のメス(独:メッツ)陥落を阻止すべく、全軍を同地に集結させようとした[39]。そして、優柔不断なナポレオン3世は、指揮官の地位をバゼーヌ元帥に委ねた[39]。
マルス=ラ=トゥールの戦い

プロイセン軍が猛進する一方で、13万人のフランス軍は前線で数回にわたって敗北を喫した後、メスの要塞に閉じ込められていた。シャロンにある友軍と連携するためにメスを離れようとするフランス軍の動きは、プロイセン軍のオスカー・フォン・ブルーメンタール(Oskar von Blumenthal)少佐指揮下の騎兵斥候により発見された。フランス軍の退却から4日後の8月16日、コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーベン(Konstantin von Alvensleben)将軍のプロイセン第2軍第III軍団3万人は、マルス・ラ・トゥール(Mars-La-Tour)東方のヴィオンヴィル(Vionville)付近でフランス軍を発見したものの、兵力ではかなり劣勢であった。
兵力は4対1であったが、第3軍団は冒険的な攻撃に打って出た。フランス軍は総崩れとなり、第3軍団はヴィオンヴィルを占領し、西へ向う退路を遮断した。メス要塞のフランス軍は退却を阻止され、血路を開くよりほかなくなった。ここに、西欧では最後となる大規模な騎兵戦を見る事となる。戦闘は直ぐに発生し、第III軍団は絶え間ない騎兵突撃を受け、兵の半数以上を失って粉砕されてしまった。一方のフランス軍も同程度の1万6千人の損害を受けたが、依然として圧倒的な数的優位に立っていた。
8月16日の時点ではフランス軍は要所のプロイセン軍の防衛を一掃して脱出できるチャンスがあった。フランス軍前衛を攻撃した2個プロイセン軍団は、これを退却中のムーズ(Meuse)のフランス軍の後衛だと考えていた。このような誤解があったものの、2個プロイセン軍団はフランス全軍を丸1日に亘って足止めした。兵力は5対1であったが、プロイセン軍の並外れた猛進が、フランス軍の優柔不断に打ち勝った。フランス軍は決定的な勝利を掴む機会を失ってしまった。
サン=プリヴァの戦い

ジュール・フェラ画, 1870年
サン=プリヴァの戦い(またはグラヴロットの戦い)は、西へ退却しようとするフランス軍が阻止されたマルス・ラ・トゥールの戦いの翌日、メスの西方約10kmの所で起こった、普仏戦争で最大の戦闘である。
モルトケ元帥が率いるドイツ連合軍は、北ドイツ連邦のプロイセン第1軍と第2軍で、その兵力は210個歩兵大隊、133個騎兵大隊、重砲732門よりなる将兵188,332名であった。フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥が率いるフランスのライン軍は、183個歩兵大隊、104個騎兵大隊、重砲520門よりなる将兵112,800名であり、南側のロゼリユ(Rozerieulles)町付近を左翼とし、北側のサン=プリヴァを右翼として、高地に沿って塹壕を掘って布陣していた。
8月18日午前8時、モルトケが第1軍、第2軍にフランス軍陣地への前進を命じて戦闘が始まった。12時までに、マンシュタイン(Manstein)将軍が第25師団の砲兵と共同してアマンヴィレー(Amanvillers)村の前で戦端を開いた。フランス軍は前夜から当日早朝にかけて塹壕と射撃壕の構築に時間を費やした一方、砲兵隊とミトラィユーズ隊は伏兵とした。最終的にフランス軍はプロイセン軍の前進に気付き、進軍中のドイツ軍の集団に対して猛烈な射撃を浴びせた。戦闘の初期の経過は、シャスポー銃の有利さを生かしたフランス軍優勢に見えた。しかしながら、全鋼鉄製のクルップ製後装砲を装備したプロイセン砲兵は優れていた。
14時30分までに、第1軍司令官のシュタインメッツ将軍は、マンス(Mance)渓谷を横切る形で第8軍団を一方的に前進させたが、フランス軍陣地からのシャスポー銃とミトラィユーズの射撃によって、プロイセン歩兵はすぐに渓谷の中で釘付けになってしまった。15時、攻撃を支援するためにドイツ軍第7軍団、第8軍団の大砲が砲撃を開始した。しかし、攻撃は立ち往生して危機に瀕しているため、シュタインメッツは第7軍団に前進を命じ、更に第1騎兵師団もこれに続いた。
16時50分までに、プロイセン軍による南側での攻撃は頓挫の危機にあったため、プロイセン第2軍の第3近衛歩兵旅団が、カロンベール将軍指揮下のサン-プリヴァのフランス軍陣地に攻撃を開始した。17時15分、プロイセン第4近衛歩兵旅団が加わり、更に17時45分にはプロイセン第1近衛歩兵旅団も加わった。プロイセン近衛旅団の攻撃は全てフランス軍の射撃壕や塹壕からの猛烈な銃火によってその場に釘付けとなった。18時15分、プロイセン第1近衛歩兵師団の最後になる第2近衛歩兵旅団もサン-プリヴァ攻撃に加わることとなった。一方、シュタインメッツは第1軍予備の最後の部隊にマンス渓谷を横切る攻撃を命じた。18時30分までに、第7軍団と第8軍団の相当部分が戦線離脱し、ルゾンヴィル(Rezonville)のプロイセン陣地に向けて退却した。
第1軍の敗退を受けて、フリードリヒ・カール王子は近衛師団の攻撃までも失敗することは避けるためにサン-プリヴァのカロンベールの陣地に対して大量の砲撃を命じた。19時までに第2軍第2軍団の第3師団(師団長:エドゥアルト・フォン・フランゼッキー)は渓谷を横切って進撃する一方、第12軍団は近在のランクール(Roncourt)町を掃討して、第1近衛歩兵師団の残存兵力と共に廃墟となったサン=プリヴァに勢いのある攻撃をかけた。20時、プロイセン第2軍団の第4歩兵師団が到着し、プロイセン右翼のマンス渓谷の戦線は膠着した。
この時までに、プロイセン第1近衛歩兵師団、第12軍団、第2軍団はサン=プリヴァを占領し、敗れたフランス軍は退却を余儀なくされた。プロイセン軍は戦闘で疲労困憊しており、フランス軍はここで反撃をかけることもできた。しかしながら、シャルル=ドニ・ブルバキ将軍はフランス軍古参近衛隊の予備に攻撃を命ずる事を拒んだ。なぜなら、この時までに彼は全般的な状況をみて「敗北した」と考えていたためである。
22時までに、戦場の銃火は夜に向けて静まっていった。翌朝、フランスのライン軍は、戦闘で弱ったプロイセン軍に対して攻撃を掛けて戦闘を再開するのではなく、メスへ退却した。
この戦闘での損害は、特に攻撃側のプロイセン軍で甚大であった。8月18日の戦闘で、合計20,163名のドイツ兵が戦死、戦傷、行方不明となった。フランス軍の損害は7,855名戦死傷、4,420名が捕虜となり(内半数は負傷していた)、合計で12,275名であった。大部分のプロイセン兵はフランス軍のシャスポー銃により斃され、大部分のフランス兵はプロイセンのクルップ砲により斃された。損害を細かくみると、フロサールのライン軍第2軍団は損害621名であった一方、シュタインメッツ指揮下のプロイセン第1軍にPointe du Jourの前で4,300名の損害を与えていた。プロイセン近衛歩兵師団の損害はさらに驚くべき数字で、18,000名の内の8,000名を失っている。特別近衛猟兵は700名の内、将校19名、下士官兵431の損害を受けた。第2近衛歩兵旅団は将校39名、下士官兵1076名。第3近衛歩兵旅団は将校36名、下士官兵1,060名。
フランス側は、サン=プリヴァを守っていた部隊は同村内で半数以上を失っていた。
メス攻囲戦とセダンの戦い

(画)アルフォンス・ド・ヌヴィル

(画)ヴィルヘルム・カンプハウゼン
バゼーヌ元帥のライン軍がグラヴロットで敗北し、メスへの退却を余儀なくされた。プロイセン第1軍および第2軍の15万人はメス要塞を包囲した。
グラヴロットでの敗北後、バゼーヌ元帥がメスに籠城した事を受け、ナポレオン3世は、メスのバゼーヌ軍と分断される形で、シャロン入りし、アルザス方面から敗走したマクマオン軍や、南方の第7軍団も同地に集結した[40]。新たにシャロン軍としてマクマオンを指揮官としたが、仏軍の士気も装備も著しく悪い状況だった[41]。しかし、皇帝もマクマオンも、バゼーヌを見捨てることによるフランス世論への悪影響を考慮し、パリ防衛に注力することを躊躇した[42]。
マクマオンは、北部のランスへ移動し、そこから南へ転進してプロイセン軍の左側面から攻撃する計画を立て、8月21日に実行に移した[42]。ところが、メスのバゼーヌは、ドイツ包囲網を西北方面に破りスダン(セダン)経由でシャロン軍と合流すると報告したため、マクマオンは東方への転進を決断した[42]。フランスの両軍は、ムーズ川付近まで進出した[42]。
モルトケ元帥が指揮するプロイセン軍は、フランス軍のこの動きに付け込み、フランス軍を挟撃する策に出た。ここで第1・2軍を再編成し、フリードリヒ・カール王子麾下の17万5千の兵力をメス攻囲の主力とし、そこから3個軍団を割いて、ザクセンのアルベルト王太子の下にムーズ軍を編成した[40]。ムーズ軍はヴェルダンを経て、ナンシーに至り、プロイセン第3軍と連携してパリを目指した[40]。
8月28日になって、ドイツはフランスの動向を知り、ムーズ軍及び第3軍を北方に進軍させた[43]。8月30日、独ムーズ軍及び第3軍は、フランス軍を捕捉した。激しい戦いののち、ドイツ軍は兵5,000人と砲40門を失い、フランス軍はセダンに退却した。
9月1日、仏シャロン軍(202個歩兵大隊、80個騎兵大隊、砲564門)は、包囲しているプロイセン第3軍およびムーズ軍(222個歩兵大隊、186個騎兵大隊、砲774門)に攻撃を開始し、戦闘が始まった。予備として待機していたフランス軍第5軍団司令官エマニュエル・フェリックス・ド・ウィンフェン将軍はプロイセン11軍団に対して歩兵・騎兵共同攻撃を行いたいと考えた。しかし11時までにはプロイセン砲兵がフランス軍に打撃を与えた一方、戦場には更に多くのプロイセン兵が到着した。Marguerite将軍が率いるフランス軍騎兵は、プロイセン11軍団が集まっている近在のフロアン(Floing)村に対して3度にわたり決死攻撃を掛けた。Marguerite将軍は最初の突撃のごく初めごろに戦死し、その後2回の突撃は大損害を受けただけで得るところはなかった。
その日の終わりになっても脱出できる望みはなく、ナポレオン3世は攻撃をやめさせた。フランス軍は戦死傷者1万7,000名を失い、2万1,000名が捕虜となった。プロイセン軍は2,320名戦死、5,980名戦傷、700名が捕虜または行方不明と報告している。
翌日9月2日までに、ナポレオン3世は降伏し、10万4,000名の将兵と共に捕虜となった。これはプロイセン側の圧倒的勝利であった。プロイセン軍はシャロン軍全部を捕虜にしたばかりでなく、フランス皇帝までも捕虜にしたのである。スダンでのフランス敗北は、この戦争におけるプロイセン有利を決定づけた。フランス軍はバゼーヌ軍がメス市にて包囲されて動けなくなっており、それ以外にドイツの進撃を阻む軍隊はもはやフランスにはいなくなったのである。
その後、メスのバゼーヌ軍18万人は大した抵抗もできず10月27日に降伏した。これはフランスにとって大きな痛手となった。にもかかわらず、戦争は更に3ヶ月も続いていくこととなる。
注釈
- ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
- ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
- ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
- ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
- ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。
出典
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普仏戦争と同じ種類の言葉
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