北越急行ほくほく線 歴史

北越急行ほくほく線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 09:53 UTC 版)

歴史

鉄道誘致活動の始まり

ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部[6])では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、バストラックの運行を開始した[7][8]。この会社は1932年(昭和7年)に売却されて頸城自動車となる[7]。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった[8]。ほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13 キロメートル(km)のところを、柏崎直江津を通る120 kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった[9]。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された[8]。その口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった[7]

既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道くびきてつどうが新黒井 - 浦川原間を全通させていた[10]。当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した[11]。この時点では松代から信越本線直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか[11])なかった[11]。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した[11]。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた[11]。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された[12]

この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた[13]。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち上がった[13]。これはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない[13]。この年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった[13]。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった[13]。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町川西町を経て2005年の合併で十日町市の一部[14])と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された[13][15]

北越北線と北越南線の計画ルートと実際のほくほく線

「南北戦争」からルートの決着まで

第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった[16][17]。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(1971年の合併により上越市の一部[18])で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された[17]。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった[17]。以降、「北越北線ほくえつほくせん」案と「北越南線ほくえつなんせん」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった[17]

北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国清津の温泉の開発ができることであるとされた[注釈 1][19]

この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった[20]。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた[20]。日本の国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで議論が進んでいた[19]。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった[19]。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた[19]。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した[19]。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった[19]

その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた[21]。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害[注釈 2]が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった[21]。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった[21][23]

1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった[24]。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた[25]

北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた[1]。地元は北越北線に旅客輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた[1]。そのため重量1,000トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた[1]。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり[1]、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった[26]。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった[1]。また東頸城地方では、安塚大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった[27]。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった[27]。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地(2005年の合併以降の上越市頸城区百間町付近[28][29])も通らないことになった[1]。浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した[27]

国鉄新線としての建設

1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた[3]。これを基に工事実施計画の指示が行われた[3]。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした[30]

公団の発足当時、工事線に指定されていた路線は全国で47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル、総工費は約2000億円とされ、年間約100億円程度の公団の予算では実現にかなりの時間がかかるのは確実な状況であった[31]。北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見が添えられた路線に含まれていなかった[31]。しかし当時の地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較的早く着工に漕ぎ着けることができた[31]

まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった[3]。この区間を先に着工したのは、松代浦川原の間でのルートの決着が付いていなかったためである[1]。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(魚沼丘陵駅)、赤倉信号場、津池(美佐島駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)[32]。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、1メートルあたりの重量が40キログラム(kg)である40 kgレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた[32]

続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された[33]。この区間の途中停車場は薬師峠信号場、松代(まつだい駅)、儀明信号場、頸城大島(ほくほく大島駅)、沢田(虫川大杉駅)、増田(くびき駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)[34]。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40 kgレールを使うが長大トンネル内は50 kgレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった[34]。1979年度完成を予定していた[32]

停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた[35]。在来線併設の六日町十日町犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた[35]。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた[35]

その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された[36]。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50 kgレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された[36]。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった[36]

この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた[37]。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた[37]。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった[37]

北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅れていた[38]。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった[39]。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった[40]。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが[36][41]、1982年(昭和57年)3月に完成済み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした[42]

第三セクター方式での建設再開

国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクター会社を設立して引き受けることが可能であると定めていた[43]岩手県三陸鉄道のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった[44]。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった[45]。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった[45]

1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した[46][42]。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた[42]。当時の君健男新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが[47]、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中元首相の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した[48]。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる[48]

「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた[49]。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した[49]。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した[49]。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった[50]。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている[50]。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行株式会社が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された[51]

第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された[52]気動車による1両または2両編成程度を想定、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった[52]。これにより全体的にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅(ほくほく大島駅)の交換設備は省略されることとなった[52]。また、上下列車の待避線への同時進入を考慮しないこととして安全側線も省略された[52]。JR線と接続する六日町十日町犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線との平面交差から立体交差に修正された[52]。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった[53]。また新座(しんざ)、顕聖寺(うらがわら)、大池(大池いこいの森)の各駅が要望駅として追加になった(いずれも当時の仮称でカッコ内は開業時の駅名)[54]

建設において最大のネックとなったのは路線のほぼ中央にある鍋立山トンネルであった。鍋立山トンネルは工事中断時点で中央部に645メートルの未掘削区間が残されており[55]、1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、極度の膨張性地山のため、当初の中央導坑先進工法(先に中央部の導坑を掘削する工法)では強大な土圧により支柱が座屈するなどの問題を生じた[55]。続いてトンネルボーリングマシン(TBM)を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった[55]。その後、薬液の注入や[55]、最終的には手掘りも実施する[56]など、実に29の工法が駆使された[57]。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工[58]となり、これにより開業のめどが立つことになった[59]。結果的にこの区間には10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることとなり[60]、のちにほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評された[59]

高速化の決定

工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。そのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された[40]。当時、北陸新幹線整備新幹線問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線、糸魚川 - 魚津間、高岡 - 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。

北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され[61]、路線の軌道は、最高速度200 km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された[62]

これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり[47]、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた[63]。JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された[64]

配線についても変更が行われ、当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越北線に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった[65]十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であった[65]が、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった[65]犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた[65]

設備面では、高速化の制約となる分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した[66]。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50 kgレールから60 kgレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した[67]。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された[68]。信号設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS-P形とし、安全側線は省略されたままとした[69]。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた[70]

最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった[71]。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった[72]

この間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「ほくほく線」に決定した[73]。これは、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから[注釈 3][73]、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである[73]。異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である[74]

試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160 km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、鉄道総合技術研究所、公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160 km/h運転試験が開始された[75]。結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160 km/hの認可を付与された[76]。しかし、後述するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた[77][76]

開業・さらなる高速化

東京と北陸を結ぶルートの変遷。ほくほく線開業前は、東海道新幹線米原乗換の「きらめき」ルートと、上越新幹線長岡乗換の「かがやき」ルートがあったが、ほくほく線開業により、金沢以東では上越新幹線越後湯沢乗換の「はくたか」ルートが使われるようになった。北陸新幹線が金沢まで延伸開業したあとは、芦原温泉以東では北陸新幹線が最速のルートとなった。

以上の経緯を経てほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業し[77]、同時に、上越新幹線越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ特急はくたか」が、ほくほく線経由で運転を開始した[77]。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線米原を経由するルートが一般的であった[56]が、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された[78]。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された[79]。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという[80]。加えて、沿線では、開業により沿線地域では高校へ自宅からの通学が可能となり[47]、進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり[81]、高校進学を機にほくほく線沿線に引っ越す事例さえ見られた[82]。上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった[81]

その後、後述するように最高速度について段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月8日から「はくたか」が150 km/h運転を開始した[4]が、この時にはダイヤ改正は行わず[83]、運転上の余裕時分の確保にあてられた[4]。続いて2002年(平成14年)3月23日から当初の予定通りの160 km/h運転が開始され[4]、ほくほく線内においては140 km/hでの運行当時と比較して1分30秒の所要時間短縮が実現した[4]。加えて車両面も高速化が進み、160 km/h運転開始時にJR西日本の485系が160 km/h対応車の681系と交代し、2005年(平成17年)3月1日には、北越急行が160 km/h対応車の683系8000番台を投入したことで、JR東日本の485系が撤退し、以後定期特急列車はすべて160 km/h運転対応の車両となった。

ほくほく線は「雪対策」の節で後述するように周囲の路線と比べ比較的安定的な運用を行っているが、2000年代には度々自然災害に見舞われている。特に2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせ[84]、10月26日より被害の少なかった犀潟 - まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開し[84]、11月2日に全線で運転を再開した[84]。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している[84]。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって急行能登」がほくほく線を経由して運転された[84]。2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した[85]

一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、ほくほく線開業のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線高崎 - 長野間が開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が石川県東部・富山県・新潟県西部への最速ルートであることから、開業まで運転されていた特急「白山」のような長野駅から北陸地方への接続列車は定期運転されず、「長野(行)新幹線」という愛称が付けられる一因となった[86]。しかし、長野以北についても翌1998年(平成10年)3月12日に長野 - 上越(仮称)間、2001年(平成13年)4月25日に上越(仮称) - 富山間、2005年(平成17年)4月27日に富山 - 金沢 - 白山総合車両基地(仮称)間の工事計画がフル規格で認可され、順次着手されるなど、計画が見直されるたびにフル規格での建設が進められていった[86]

当時、ほくほく線を運営する北越急行は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており[87]。2001年度の営業係数は73.0パーセントと、第三セクター鉄道の中では経営状態は良好であったが、全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかった[81]。このため、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄えることとした。先述のJR東日本の485系を683系8000番台の自社による投入で置き換えたことも、JR東日本側の事情[注釈 4]のほか、全便高速化による運用効率向上によるサービスアップ・増収や、JR東日本への車両使用料の支払いを無くし、逆に従来3社で相殺していたJR東日本・西日本線の走行時の車両使用料収入を得るという目的もあった[88]。こうして、最終的には2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態[89]でほくほく線は2015年3月14日の北陸新幹線長野 - 金沢間開業を迎えることとなった。

北陸新幹線金沢延伸開業以降

直江津駅に停車中の超快速「スノーラビット

2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」の廃止により、ほくほく線は地域輸送を主とする路線として再出発を切ることになった[90][91][92][93][94]。このため、同日より国土交通省運輸局への申請最高運転速度を130 km/hに引き下げ、設備についても順次スリム化・使用停止・撤去が行われている[95]

その後、北越急行は2015年度決算で最高速度引き下げなどによる施設の評価損等により前年度の11億円の黒字から11億円の最終赤字に転落[96]、その後も6億円前後の最終赤字で推移している[97]。しかし北越急行では2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが直江津駅(アクセスには北陸新幹線でも上越妙高駅からの乗り換えを要する)で乗降している[98]ことや、沿線の十日町を中心に東京や金沢と相互のビジネス需要が見込まれること[99]から、「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」とし[98]、事業を当面継続することは可能であるという見通しを持った[98]

運行面では特急の廃止により普通列車の時分短縮が実現した。加えて「ほくほく線全体の速さと便利さをアピール[99]」する「快速を超える列車」[100]として、前年の2014年(平成26年)から越後湯沢 - 直江津間を1時間で結ぶ「超快速列車」の運行を計画し[101]、2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正で「スノーラビット」の愛称で運転開始した[94]。この超快速は日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては、2016年時点で表定速度が最も高い列車であり[99]、特に直江津駅からは、上越妙高駅乗り換えの北陸新幹線経由と所要時間で遜色がなく、かつ運賃+特急料金が1,000円以上安いことをセールスポイントとし、北陸新幹線との対抗馬、線内における「はくたか」の後継としての側面も名実ともに強く意識されている。一方で、超快速列車の越後湯沢発1本と折り返しの普通列車越後湯沢行きを、同日信越本線を転換して開業したえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅まで直通させる[102]ことで、沿線から高田駅・上越妙高駅へのアクセスを高めているなど、北陸新幹線と協力する一面もある。

また、新たな収入源として、2016年(平成28年)には普通列車の六日町駅 - うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「貨客混載」を行うことで佐川急便と合意し[103]、試運転(トライアル)ののち[104]、2017年4月18日より夜間の普通列車1往復で、本格的な運用が開始されている[105]。これは、先述のように並行道路である国道253号の道路状況が峠越えの連続や冬季の積雪で依然劣悪であり、場合によっては高速道を用いて長岡経由で輸送せざるを得ない[104]など、営業所間の輸送に支障が生じる場合があるためで、普通列車として使用しているHK100形車両に佐川急便のカーゴ台車を固定可能とする改造を行い、運用している[104]

2018年5月29日、北越急行は同年12月1日より普通運賃と通勤定期運賃を10 %値上げする変更認可申請を国土交通省北陸信越運輸局に行ったことを発表した[106]。また、トイレ付き車両を当初の計画よりも前倒しで導入することを検討していることも発表された[106]

2018年12月1日、「永続的に鉄道を走らせていく」ため運賃改定が実施された。普通運賃と通勤定期が10 %値上げされたが、通学定期は据え置かれ、中学生用定期が新設された[107][108]

年表

  • 1931年(昭和6年)8月 - 地元の関係者が国会に請願書を提出し、鉄道敷設運動が始まる[109]
  • 1940年(昭和15年) - 越後湯沢と結ぶ北越南線構想が持ち上がる[13]
  • 1944年(昭和19年) - 信濃川発電所工事線を延長する形で松代と結ぶ路線の建設が決まるが、後に敗戦により計画中止[13]
  • 1950年(昭和25年)9月3日 - 北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会発会式[17]
  • 1953年(昭和28年)
    • 2月 - 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留[110]
    • 8月 - 新潟県知事裁定により北越北線採択[19]
    • 9月 - 期成同盟会総会を南線側がボイコット[19]
  • 1961年(昭和36年)2月23日 - 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結[111]
  • 1962年(昭和37年)
    • 4月22日 - 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択[111]
    • 5月12日 - 鉄道敷設法第1条別表第55ノ3号により、予定路線に編入[23]
  • 1964年(昭和39年)
    • 4月22日 - 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示[24]
    • 9月28日 - 工事線に昇格[24]、運輸大臣が路線の基本計画を定め、日本鉄道建設公団(鉄道公団)に対して工事実施計画の指示[3]
  • 1968年(昭和43年)
    • 3月28日 - 六日町 - 十日町間工事実施計画認可[3]
    • 4月20日 - 六日町にて北越北線起工式挙行[112]
    • 8月14日 - 六日町 - 十日町間着工[3]
  • 1972年(昭和47年)10月11日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画認可[3]
  • 1973年(昭和48年)3月24日 - 十日町 - 犀潟間着工[3]
  • 1978年(昭和53年)7月20日 - 停車場有効長の延伸、スラブ軌道の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更[36]
  • 1980年(昭和55年)12月27日 - 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行[113]により工事凍結[36]
  • 1982年(昭和57年)3月 - 完成済み施設の保安工事完了、工事全面停止[42]
  • 1983年(昭和58年)6月22日 - 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される[46]
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月1日 - 第三セクター設立準備会設立[51]
    • 8月27日 - 北越急行創立総会を新潟市で開催[51]
    • 8月30日 - 北越急行株式会社設立登記[51]
    • 11月8日 - 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示[51]
  • 1985年(昭和60年)
    • 2月1日 - 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける[51]
    • 2月25日 - 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示[51]
    • 3月16日 - 鉄道公団により工事再開[51]
  • 1988年(昭和63年)8月 - 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱[114]
  • 1989年(平成元年)
    • 3月28日 - JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結[115]
    • 5月31日 - 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95 km/hから130 km/hへ、動力方式を内燃から電気へ、別途160 km/h対応で基礎的施設の工事を行っておくことを表明[116]
    • 7月31日 - 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示[117]
    • 10月2日 - 高規格化対応工事に着手[117]
  • 1996年(平成8年)
    • 4月15日 - まつだい駅構内にてレール締結式[118]
    • 9月19日 - HK100形初入線。速度35 km/h[75]
    • 9月28日 - 681系2000番台初入線。段階的に速度を上昇[75]
    • 10月7日 - 681系による160 km/h走行試験を開始[75]
  • 1997年(平成9年)3月22日 - ほくほく線開業[77]。特急「はくたか」運転開始。
  • 1998年(平成10年)12月8日 - 「はくたか」を150 km/hにスピードアップ[119]
  • 2002年(平成14年)3月23日 - 「はくたか」を160 km/hにスピードアップ[119]
  • 2004年(平成16年)
    • 10月23日 - 新潟県中越地震発生、全線で運休となる[84]
    • 10月26日 - 犀潟 - まつだい間で運転再開[84]
    • 11月2日 - 全線で運転を再開[84]
  • 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止[85]
  • 2015年(平成27年)
  • 2016年(平成28年)
    • 8月28日 - イベント列車「超低速スノータートル」第2弾を運行。今回以降先着順から抽選に変更、競争率3倍。
    • 11月8日 - 佐川急便と連携した貨客混載列車の試運転を報道各社に公開[104]
  • 2017年(平成29年)4月18日 - 夜間の普通列車1往復の六日町 - うらがわら間で佐川急便との貨客混載を開始[105]
  • 2018年(平成30年)12月1日 - 普通運賃と通勤定期運賃を改定し10 %値上げ[108]
  • 2023年(令和5年)3月18日 - 超快速列車を含む全ての快速列車及び、大池いこいの森駅通過の普通列車といった、六日町 - 犀潟間の線内で通過運転を行う定期列車が全廃。平日のみ運行の列車が1往復設定。最高速度を95 km/hに引き下げ[5]

注釈

  1. ^ いずれも越後湯沢の西方にある地名であるが、原出典では地図等の明示がなくこれらに該当すると確定できない。ここでは仮に関連すると思われる記事にリンクしてある。
  2. ^ 1962年4月から松之山町内で大規模な地すべりが発生していた。南線予定ルートにある「光間」駅付近[22]
  3. ^ アンケートの上位は「ほくほく線」と「北越ロマン線」の2つであった。
  4. ^ 当時、JR東日本では、自社管内にはない交流20000 V・60 Hzで電化された北陸本線でも走行できる特急型車両としてE653系が存在した。しかし、「はくたか」は当時JR西日本・JR東日本・北越急行の3社で運行距離による比率で車両の運用数を按分し相殺していたため、仮にJR東日本が車両を新造した場合「はくたか」用単体ではごく少数の新造(最低1編成、485系3000番台は予備を入れて2編成)に留まり、加えて高速運転対応設備が求められる。また、北陸新幹線開業後に他線区に転用することがほぼ確実であるため、新潟地区など他線区の置き換えと同時に新造すると余剰となる可能性があった。
  5. ^ ノーズ可動クロッシングにすることによって、ポイントを高速で通過しても脱線しにくくなる。
  6. ^ 開業時点ではJR以外の日本の山岳用鉄道トンネルとして最長であったが、2015年3月14日の北陸新幹線開業に伴い、北陸本線の頸城トンネル(11,353 m、1969年開通)がえちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの所属に移管されたため、「JR以外の鉄道で最長の山岳トンネル」の座は譲っている。
  7. ^ これにより、この区間での単線区間においては、1つの列車しか進入できないようになっている
  8. ^ 160 km/h運転時での閉塞信号機が合った個所での確認喚呼は特急列車では「第○閉塞 高速進行」、普通列車では「第○閉塞 進行」であったが(○は閉塞信号機の番号)、新設された地点標識での確認喚呼では「第○地点 よし」としている
  9. ^ 通常、同時進入は警戒現示により25 km/h制限となる。
  10. ^ 架線支持方式には様々な方式がある。コンパウンドカテナリ方式の架線は構造が複雑である反面、一般的な架線よりも張力を高くすることが可能でありパンタグラフへの追従性が良い。
  11. ^ ただし一部区間での表定速度に限れば、首都圏新都市鉄道が運営するつくばエクスプレスが、流山おおたかの森駅 - つくば駅間 31.8 kmを快速で19分・表定速度100.4 km/h(途中停車駅数1)、守谷駅 - つくば駅間 20.6 kmを快速で12分・表定速度103.0 km/h(途中停車駅数0)、JR西日本湖西線の快速が堅田駅 - 近江舞子駅間14.5kmを8分・表定速度108.75km/h(途中停車駅数0)で走行するといった事例は存在する(いずれも最高速度 130 km/hでの運転)。
  12. ^ 仮にこの数値を国鉄再建法により規定された区分に当てはめた場合、「地方交通線」ではなく「幹線系線区」に該当する。
  13. ^ なお私鉄・第三セクター所属車両がJR車籍に編入されるのは、209系3100番台キハ125形400番台に次いで3例目となる。
  14. ^ なお、1編成は前述の譲渡を待たずに「しらさぎ」色への塗り替えが行われた。

出典

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