三方ヶ原の戦い 参戦武将

三方ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 01:43 UTC 版)

参戦武将

徳川軍武将
織田軍武将
武田軍武将

逸話

徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。
  • 浜松市内の地名の「小豆餅」(中央区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った茶屋の老婆より小豆餅を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる[17]
  • 敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。また、家康が武田軍の追跡を逃れるため浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。
  • 犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという[18]。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。
  • 敗走中の家康が恐怖のあまり便失禁し、浜松城に入城した後に家臣からその旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話が知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話とされている[19]
  • 門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。
  • 撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『信長公記』にある。
  • 敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。
月岡芳年『酒井忠次時鼓打之図』
  • 家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が1873年(明治6年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったものである。『三河後風土記』が典拠とされることがあるが、同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる[20]
  • 前哨戦では磐田・見付町の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(『見付町田畑定納由緒書上控』)[21]。史料によると内容は3つである。
    • 「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」
    • 「夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」
    • 「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた」

三方ヶ原の戦いをテーマにした作品

  • 講談
    • 「三方ヶ原軍記」

講談師が最初に覚える話として知られ、一席の内のほとんどを修羅場読みが占める。

  • 舞台

2023 Office KAN 戦国ミュージカル「覇王の光〜三方ヶ原〜」




注釈

  1. ^ 朝野旧聞裒藁』を含む。
  2. ^ 現在の中央区小豆餅
  3. ^ 現在の根洗町
  4. ^ 現在の中央区住吉
  5. ^ 現在の浜名区細江町中川

出典

  1. ^ 丸島 2015, p. 684, 「山県昌景」.
  2. ^ 谷口克広『織田信長合戦全録』〈中公新書〉2002年、112頁。ISBN 978-4-12-101625-6 
  3. ^ 『「家康大敗」の真相は』「古今をちこち」磯田道史。読売新聞2013年11月27日29面
  4. ^ 平山 2020, p. 125-129.
  5. ^ 柴裕之「足利義昭政権と武田信玄―元亀争乱の展開再考―」(『日本歴史』817号、2016年6月)
  6. ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」(『戦国史研究』第74号、2017年)/久野『織田信長政権の権力構造』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-326-8 2019年、P176-190.
  7. ^ 染谷光広「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」『日本歴史』360号、1978年。 
  8. ^ 平山 2020, p. 133-138.
  9. ^ 平山 2022, p. 287-291.
  10. ^ 平山 2020, p. 188-190.
  11. ^ 平山 2022, p. 297-300.
  12. ^ 平山 2020, p. 191-195.
  13. ^ 平山 2022, p. 309-317.
  14. ^ 平山 2020, p. 150-160.
  15. ^ a b c 丸島 2013, p. 210.
  16. ^ a b 丸島 2013, pp. 210–211.
  17. ^ 原 2016, p. 7.
  18. ^ 堤邦彦 著「いくさ語りから怪談へ」、徳田和夫; 堤邦彦 編『寺社縁起の文化学』(初版第2刷)森話社、2006年、179-181頁。ISBN 4916087593 
  19. ^ 小楠 2000.
  20. ^ 原 2016, pp. 7–8.
  21. ^ 小和田哲男『戦国の群像』(学習研究社、2009年)177-178頁






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