三方ヶ原の戦い 三方ヶ原の戦いをめぐる論点

三方ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 01:43 UTC 版)

三方ヶ原の戦いをめぐる論点

家康が出陣した理由

通説では、信玄の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。

あえてここで出撃することによって家臣や国人衆たちの信頼を得る(ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、織田氏武田氏のどちらが勝つにせよ戦役終了後に徳川氏に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた[7]と言った戦術的面から見た説もある。

また、『当代記』『四戦紀聞』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。

近年の新説として、信玄が最初から浜松城を直接攻撃せずに堀江城を攻め落として浜松城を兵糧攻めにしようとしており、その意図に家康が気付いたためとする説もある。浜松城への兵站の輸送は浜名湖の水運に依存している要素が大きく、特に堀江城と対岸の宇津山城がその要となっていた(既に遠州灘には武田氏の海賊衆が進出していており、三河湾を窺っていた)。この事実に着目した武田軍は堀江城を落として三河(更にその向こうの織田領国)と浜松城を結ぶ輸送路を絶って家康を兵糧攻めにすることで、浜松城を攻め落とす作戦を立てていたとする。家康とすれば、堀江城が落とされる事態となれば、浜松城の維持が困難になるため、どうしても打って出ざるを得なくなったとしている[8][9]。実際に戦いの翌日から武田軍は堀江城の攻撃を開始しているが、天候の悪化等もあってわずか4日間で撤退を余儀なくされている[10][11]。しかし、信玄は代わりの策として城主である酒井忠次と本多広孝が浜松城に詰めているために兵力が手薄になっている東三河の吉田城田原城を水陸両面から攻め落として輸送路を絶つ作戦に変更し、信濃方面と吉田城を結ぶ要である菅沼定盈の野田城の攻略を開始したのだという[12][13]

両軍の布陣

この戦において徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形であり、数に劣る徳川軍、数に勝る武田軍であったとすると、どちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる。

徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説
  1. そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。
  2. 最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。
武田軍が魚鱗の陣を取った理由の説
  1. 鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。
  2. 織田軍の中でも特に増員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。

他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。

合戦跡

実は三方ヶ原の戦いにおける主戦場はわかっていない。現在の三方原墓園(浜松市中央区根洗町)に古戦場の碑こそあるが、特定されているわけではない。

平山優によれば、現在のところ主に4つの有力説があるという。すなわち、「小豆餅」[注釈 2]説、「根洗」(祝田坂上)[注釈 3]説、「大柴原」[注釈 4]説、「大谷」[注釈 5]説である。ただし、主戦場について直接記した史料が少ないことや関連史跡が開発によって移転や消滅をしているものがあることにより検証が困難であり、結論は出されていない[14]

一方で犀ヶ崖の戦いにおける古戦場としては、犀ヶ崖資料館(浜松市中央区鹿谷町)があり、また戦の故事から浜松市に布橋という地名がある。

小山田信茂の投石隊

三方ヶ原の戦いでは武田家臣の小山田信茂投石隊を率いたとする逸話が知られる。三方原における投石隊に関して、『信長公記』諸本では武田氏では「水役之者」と呼ばれた200 - 300人の投石部隊が礫(つぶて)を打ったと記している[15]。一方、『三河物語』でも武田氏では「郷人原(ごうにんばら)」と呼ばれた投石隊が率いられていたとしている[15]

これらの史料では投石隊を率いたのが小山田信茂であるとは記述されていないが、江戸時代には正徳4年(1714年)の遠山信春『總見記(そうけんき)』においては信玄は信茂に先陣を命じ、それとは別に「水役之者」を先頭に立たせ礫を投げさせたと記し、これは「水役之者」を率いたのが小山田信茂であると誤読される可能性が指摘されている[15]

1910年明治43年)には陸軍参謀本部編『日本戦史 三方原役』においては信茂が投石隊を率いたと記され、1938年昭和13年)の『大日本戦史』では陸軍中将・井上一次が同様に投石隊を率いたのが小山田信茂であると記している[16]。その後、信茂が投石隊を率いた点が明確に否定されることがなかったため、俗説が成立したと考えられている[16]




注釈

  1. ^ 朝野旧聞裒藁』を含む。
  2. ^ 現在の中央区小豆餅
  3. ^ 現在の根洗町
  4. ^ 現在の中央区住吉
  5. ^ 現在の浜名区細江町中川

出典

  1. ^ 丸島 2015, p. 684, 「山県昌景」.
  2. ^ 谷口克広『織田信長合戦全録』〈中公新書〉2002年、112頁。ISBN 978-4-12-101625-6 
  3. ^ 『「家康大敗」の真相は』「古今をちこち」磯田道史。読売新聞2013年11月27日29面
  4. ^ 平山 2020, p. 125-129.
  5. ^ 柴裕之「足利義昭政権と武田信玄―元亀争乱の展開再考―」(『日本歴史』817号、2016年6月)
  6. ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」(『戦国史研究』第74号、2017年)/久野『織田信長政権の権力構造』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-326-8 2019年、P176-190.
  7. ^ 染谷光広「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」『日本歴史』360号、1978年。 
  8. ^ 平山 2020, p. 133-138.
  9. ^ 平山 2022, p. 287-291.
  10. ^ 平山 2020, p. 188-190.
  11. ^ 平山 2022, p. 297-300.
  12. ^ 平山 2020, p. 191-195.
  13. ^ 平山 2022, p. 309-317.
  14. ^ 平山 2020, p. 150-160.
  15. ^ a b c 丸島 2013, p. 210.
  16. ^ a b 丸島 2013, pp. 210–211.
  17. ^ 原 2016, p. 7.
  18. ^ 堤邦彦 著「いくさ語りから怪談へ」、徳田和夫; 堤邦彦 編『寺社縁起の文化学』(初版第2刷)森話社、2006年、179-181頁。ISBN 4916087593 
  19. ^ 小楠 2000.
  20. ^ 原 2016, pp. 7–8.
  21. ^ 小和田哲男『戦国の群像』(学習研究社、2009年)177-178頁


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