イギリス領インド帝国 歴史

イギリス領インド帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 08:11 UTC 版)

歴史

キャニング総督からリポン総督の時代(1858年 - 1884年)

チャールズ・キャニング。初代インド副王に就任した

インド大反乱を鎮圧したイギリス政府は、1858年8月2日、インド統治改善法を可決した。インド統治改善法により、イギリス東インド会社が保有していた全ての権限はイギリス国王に委譲されることとなった。また、イギリス本国ではインド担当国務大臣のポストが新設され、その補佐機関として、インド参事会が設けられた。また、かつてのベンガル総督がインド総督となり、肩書きに「副王」の称号が付与された。11月1日チャールズ・キャニング(就任期間:1858年11月1日-1862年3月21日)が初代の「副王」に就任した[7]

キャニング卿によるインド統治の方法は、推定されうる反乱の要因を摘み取るものであったため、インド大反乱の要因となった「養子縁組の否定」を否定した。その結果、インドは、藩王の地位は保証されることとなり、インドの人口の約3分の1が約500人の藩王による間接統治に置かれることとなった[7]。このことは、過去の封建体制の有力者をイギリス統治の防波堤として重視しつつ、議会主義の理念や自由主義的政治理念をもって、インドを統治するという、矛盾を孕んだものであった[7]。しかし、このことにより、キャニングは、インド統治の確立に成功した。

第2代副王であるエルギン伯爵ジェイムズ・ブルース(就任期間:1862年3月21日-1863年11月20日)がインドで客死したため、シク戦争などインドでの経験が豊富であったサー・ジョン・ローレンス準男爵(就任期間:1864年1月12日-1869年1月12日。退任後初代ローレンス男爵)が急遽、イギリス本国からインドに赴任することとなり、第3代副王となった。ローレンスは、内政面では、インド人への教育機会の拡大を図った。とはいえ、ローレンスはインド人を高等公務員に就任することに関しては制限を続けた。一方外交面では、アフガニスタンやペルシャ湾岸地域への介入を回避しながらもブータン戦争を実施し、勝利した。経済面では、オリッサラージプーターナー飢饉が発生した(それぞれはオリッサ飢饉 (1866年)ラージプーターナー飢饉 (1869年)を参照)。

1877年、第5代副王ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)(就任期間1876年4月12日-1880年6月8日)が、ムガル帝国の古都デリーで「帝国会議」(デリー・ダルバール英語版)を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった[8]。リットン卿の時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死するインド大飢饉が発生する[9] など、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。

ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)

リットン卿によるアフガニスタン侵攻は、イギリス本国において、政変へと発展した。当時イギリス本国で首班を務めていたディズレーリが総選挙で敗北し、第2次グラッドストン内閣が発足すると、ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)が第6代副王に就任した[10]

リポン卿は、インドで西洋式教育を受けた階層から大きな支持を受けた。リットン卿が1878年に制定した出版物規制のための法律である「土着言語出版法」を廃止し、1882年には部分的にではあるが、選挙で選出された議員から構成される自治制度の大枠を作成した[10]。しかし、リポン卿は、自らの統治の後半、「イルバート法案英語版」を廃案にしたことで、インド人の反感を買う結果を招いた。この法案は、イギリス管区の首都ではインド人判事がヨーロッパ人を裁くことができるが、他の地方ではそれができない状態を改善するための法案であったが、インド在住のヨーロッパ人の反対の世論に屈服し、廃案になった[10]

ダファリン総督からエルギン総督の時代(1885年 - 1899年)

第7代副王として、初代ダファリン伯爵フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド(就任期間:1884年12月13日-1888年12月10日)が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が1885年に始まったが、翌年この戦争はイギリスの勝利に終わり、ビルマの植民地化が完成した。

ダファリン時代の1885年に、今後のインドの政治を主導するインド国民会議が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、「富の流出」が進んでいたこと[11]、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったこと[11] が、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、ヒンドゥーがほとんどであり、イスラーム教徒の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、バール・ガンガーダル・ティラクが参加したことにより急進化する[12]1893年には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、ビハール州、ビルマのラングーンと広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった[12]。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった[12]

19世紀最後の10年間は、1896年1899年大飢饉英語版)、1890年代のペストの大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。

カーゾン総督からミントー総督の時代(1899年 - 1910年)

1907年から1909年のベンガル地方の地図

1899年カーゾン卿(就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日)が第11代副王として就任した。カーゾン卿は外交面では、1903年チベットに初めて外交使節を派遣した。また、アフガニスタンとの国境線で常に不安定であった北西部において、「北西辺境州」を設置することで、治安の回復を図った。内政面においては、肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立[13] を実施した。

しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、1904年のインド大学法と1905年ベンガル分割令によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された[14]。ベンガル分割令において、ベンガルを二分し、ベンガル東部とアッサム地方でもって東ベンガル州を新設し、ベンガル西部とオリッサ州ビハール州とを合わせて西ベンガル州を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった[13]。ベンガル分割令は、1911年に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を与えるという、いわば、ベンガル人に対して妥協がなされる形となった[15]

1905年、カーゾンが辞任し、第12代副王として第4代ミントー伯爵ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド(就任期間:1905年11月18日-1910年11月23日)が就任した。ミントー卿は各地で起こっていた反英運動を徹底的に弾圧した。1906年ジョン・モーリー英語版インド担当国務大臣が尊敬する、国民会議「穏健派」のゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーが議長に就任するが、ティラクを中心とする「急進派」が過激活動を展開した。ティラクは1907年逮捕され、6年の懲役を受け、マンダレーへ流されることで、国民会議は穏健派が支配することとなったが、国民会議は分裂により、急速に求心力を失う結果となった[16]

また、ミントー卿は、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々[17] を後押しする形で、1906年、全インド・ムスリム連盟が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。

ハーディング総督からチェムズファド総督の時代(1910年 - 1921年)

1911年デリー・ダルバール英語版に参列したマリク・ウマル・ハヤート・ハーン英語版パンジャーブ地方の有力者である。

ハーディング卿(就任期間:1910年11月23日-1916年4月4日)が第13代副王として就任すると、その翌年、ジョージ5世メアリー王妃がインドを訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。イギリス国王がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、カルカッタからデリーへの遷都が宣言された。

ハーディング総督時代のインド政治を左右したのは当時の国際情勢であった。1911年から始まった伊土戦争とそれに続く2度のバルカン戦争により、オスマン帝国の宗教的権威が大きく揺らぐこととなった。ムスリム大衆の間には親トルコ的感情が生まれることとなり、後に、オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れると、ヒラーファト運動へと発展することとなった。

1914年、第一次世界大戦が開戦すると、6月に釈放されていたティラクをはじめ、多くの民族主義指導者はイギリスへの支持を打ち出した。ティラクをはじめとする彼らの期待は、インドのイギリスによる支持は、終戦後、結果として、インドへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた[18]。100万人以上のインド人が徴兵に応じ、フランス中東で戦死した[19]

大戦期、インド経済は極度のインフレーションと重税に直面することとなり、民族主義的な政治運動が展開される環境が整った。その結果、「自治連盟(Home Rule Leagues)[18][19]」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開[18] が見られるようになった。前者の活動を指導したのは、1つは、ティラクを中心とする勢力であり、もう1つは、イギリス人女性アニー・ベサントであった。後者の革命的活動はベンガルマハーラーシュトラから、全北インドに広がりを見せた[18]

インドにおける民族意識の高揚、かつての分裂が無意味であることを自覚したティラクは国民会議の再統合を促した。その結果、1916年のラクナウ大会では、国民会議の再統合の達成と全インド・ムスリム連盟との対立関係は解消された。国民会議と連盟の間では、ラクナウ協定英語版が締結され、両者の協力関係が確認された。しかし、ラクナウ協定の意義は、分離選挙制度に基づく政治改革であったことから、インド政治に宗派主義が復活する可能性を残した[18]

アムリットサル事件

イギリスはヒンドゥー、ムスリムの二大勢力が大同団結した事態を重く見て、1917年8月20日、エドウィン・サミュエル・モンタギュー英語版インド担当国務大臣により、モンダギュ宣言が発表された。イギリスは植民地インドの即時独立を容認することはなく、全人的に自治権を拡大させる政策を採った。モンタギューとチェムズファド第14代副王(就任期間:1916年4月4日-1921年4月2日により、モンタギュー・チェムズファド改革英語版と呼ばれる改革を推進することで、インドの民族主義者の懐柔と同時に、1919年には、ローラット法が可決され反英主義者の弾圧も行う姿勢を見せるようになった。ローラット法が適用されて展開された悲劇がアムリトサルの虐殺である。

しかし、この時代、インド独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたティラクの死亡、南アフリカからのモハンダス・カラムチャンド・ガンディーの帰国である。

リーディング総督時代(1921年 - 1926年)

グジャラート州ケーダー県で活動していた際のガンディー

ガンディーが南アフリカから帰国したのは、1915年のことである。帰国した後のガンディーは、インド各地を回り、インドの現状の把握を理解した。インドにおけるガンディーの闘争の歴史は、1917年のチャンパーラン・サティヤーグラハとその翌年のアフマダーバードの工場ストライキ英語版)で始まる。チャンパーランでの闘争において、ガンディーの市民的不服従運動は勝利を収め、アフマダーバードの工場ストライキにおいて、インド人の政治的覚醒を促すことに成功する[20]

アムリトサル事件以降、ガンディーは国民会議派の支持を集めることに成功した。糸をつむぐ姿のガンディーとはもっとも相容れない資本家層の支持も取り組むことに成功したことで、インド独立闘争は、第三段階へと移行することとなった。とりわけ、ガンディーを支持したのは、人口が稠密であるビハール州連合州であった[21]

一方で、ガンディーを支持しなかった層が存在したことも確かである。1つが各地の藩王国人口密度が極めて低い山間部である。これらの地域にはガンディーの主張が正しく伝わらなかった[21]。その理由は国民会議の運動員の中心は都市部の学生であったこと、そのため、前述の地域に赴くことができなかったこと、赴くことができなかったのは、鉄道等のインフラストラクチャーが整備されていない物理的側面と各地の藩王ナショナリズムを排斥していたからに他ならない[21]。また、ガンディーの主張にインドの公用語ヒンディー語にすべきであるという点があったことから南インドでの活動の拡大にも限界があった[21]

もう1つの層は、ムスリム層である。ムスリム連盟を指導することとなるムハンマド・アリー・ジンナーは、合法的な独立闘争を展開することを目指したゴーカレーに師事していたこともあって、国民会議を脱退し、ムスリム連盟に参加する。1920年セーヴル条約により、オスマン帝国の瓦解が明らかになるにつれ、ヒラーファト運動は停滞するようになった。さらに、1924年ケマル・アタテュルクにより、トルコ共和国の設立が宣言されると、ヒラーファト運動は破綻した[21]。ラクナウ協定から1922年までの6年間はヒンドゥーとムスリムの間は最後の蜜月の期間であったが、それぞれの大衆動員は、別個でされていたこともあり、徐々に、宗派対立がインド政界に台頭するようになった[21]

1921年の年末までに、ガンディーを除くほとんどの民族主義指導者が逮捕された。その数は、3000人に達した[22]。だが、12月の国民会議アフマダーバード大会では、非暴力・非協力の運動の方針が再確認され、運動は継続された。しかし、次の年になるとガンディーが指導してきた運動は徐々に暴力性を帯びるようになった。ガンディーは、民族運動の停止を決定し、3月10日は、イギリス政府により、ガンディーは逮捕された。こうして、ヒンドゥー、ムスリム両方の反英闘争は一旦、終止符を打つこととなった[22]

ベンガル出身の指導者C.R.ダース英語版

1922年、国民会議は分裂の危機に直面していた。「立法参事会に積極的に進出して、さらには立法参事会を政治闘争の舞台として利用すべきである」と考えていたジャワハルラール・ネルーC.R.ダース英語版のグループと、「議会政治は大衆の間での活動を軽視させ民族主義の熱を冷ます」と考えた「固守派」と呼ばれるグループの対立であった[23]。12月、ネルーとC.R.ダース英語版は国民会議の一派閥として、スワラージ党英語版を結党した[23]

1924年に釈放されたガンディーも両派閥の仲裁に入ったが、不調に終わる。しかし、1907年の分裂のようなことを回避することは両派閥とも共有されていた。その後のネルーのスワラージ党は、1923年の選挙で101議席中42議席を獲得し、1925年3月には、中央立法会議の議長として、ヴァッラブバーイー・パテールを送り込むことに成功した[23]

おおよそこの時代は、インド独立運動において、高揚とその後の停滞した時代という向きが見られる。

アーウィン総督からウィリンダン総督の時代(1926年 -1936年)

1927年ジョン・サイモンを委員長とするサイモン委員会英語版が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まっていたからであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。

イギリスのこの不手際により、第16代副王アーウィン卿(就任期間:1926年4月3日-1931年4月18日)は、インドはカナダオーストラリアと同様の「自治領」になるだろうと宣言したものの、インド人のサイモン委員会に対する不信感を払拭することはできず、さらに、2回目の非暴力運動の準備が始まった。

1928年には、ネルーが中心となり、「ネルー報告英語版」がまとめられた。インドの即時独立を要求する内容はイギリス政府に受け入れられず、さらに、徐々に目立ち始めてきたヒンドゥーとムスリムの対立を露呈する結果となった[24]

1928年12月、国民会議派カルカッタで大会を開き、ガンディーも大会に参加した。ガンディーは戦闘的左派をなだめるのに成功し、ネルーが父モーティーラール・ネルー英語版に代わり、国民会議の議長に就任した。さらに、翌年のラホール大会で、国民会議は、「プールナ・スワラージ(完全独立)」を採択した。

ガンディーが指導する第2回非暴力運動の頂点は、「塩の行進」で頂点に達した。ガンディーの行進により、インド中に運動は拡大した。森林法英語版が1927年に可決していたが、この法律は、マハーラーシュトラカルナータカ中央州で次々と破られた。さらに、今までインド独立運動で大きな役割を果たしてはいなかった女性が積極的に参加したことも特徴であった。パシュトゥーン人ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン英語版は、クダーイー・キドマトガールを組織し、非暴力と独立闘争に誓いを立て[25]、インドの東端ナガランドでは13歳のラーニー・ガイディンリュー英語版がヒロインとなり、国民会議の呼びかけに応じた[25]

イギリスは国民会議抜きで円卓会議を開催していたが、実効性は全く持たなかった。1931年3月、アーウィン卿はガンディーとニューデリーの総督府で面会する。その結果、ガンディー・アーウィン協定英語版が結ばれ、非暴力運動は一旦、中止され、ガンディーはロンドンで開催される第二回英印円卓会議に参加する。しかし、イギリスはインドの独立を認めず、ガンディーは得ることもなく帰国した。帰国したインドで待っていたのは、世界恐慌の影響で不満が充満していた農村部の窮状であった。ガンディー及び国民会議は1931年12月より、小作料地租の不払い運動を開始せざるをえなかった[25]

ウィリンダン卿。第2回非暴力運動を徹底的に弾圧した。

第17代副王になったウィリンダン卿(就任期間1931年4月18日-1936年4月18日)は、前任のアーウィンとの政治姿勢は全くの正反対の人物であり、徹底的な弾圧を実施した。10万人以上のサッティヤーグラハ参加者の投獄、数千人の土地・家屋、その他の財産の没収、民族主義的な新聞の検閲[25] が実施された。ウィリンダンの弾圧は最終的に成功を収め、民族運動は1934年には完全に終結した。

1932年11月には、再び、国民会議派抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、1935年には、インド統治法英語版が公布された。

リンリスゴー総督の時代(1936年 - 1943年)

第18代副王リンリスゴー侯爵(就任期間:1936年4月18日 - 1943年10月1日)の時代は、全世界をファシズムが覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、総選挙が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、社会主義思想の台頭、農民労働者組織の成長、藩王国人民の闘争の展開、宗派主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、1939年より始まった第二次世界大戦が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。

1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、レヴェルでは州自治の基本に基づく州政府の設立を定めた。このインド連邦構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、連邦制構想は、藩王がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。

ミナーレ・パキスタン英語版ラホールのこの場所でラホール決議英語版は採択された

一方、州の権限が拡大されたことにより、州政治が活発化した。国民会議派は、不十分であったこの統治法に基づく選挙に臨むことを決定し、1937年の総選挙の結果、ベンガル州(農民大衆党とムスリム連盟による連立政権)とパンジャーブ州(連合党)を除く9州で単独政権ないしは会議派が参画する連立政権が成立した。

しかし、州政権をとった国民会議は、公約のほとんどを実行することはなかった。その背景には、国民会議の支持層が商業界、知的専門的業界、裕福な農民層であったからである[26]。とはいえ、国民会議による政権によって、市民的自由(出版や急進的組織への規制の撤廃、労働組合や農民組織の活動と発展の許容、政治犯の釈放など)の促進[27]、あるいは、小作権に関しての規定[27]、一部の州では、ハリジャン(不可触民)の地位改善[27] に取り組むこともあった。

とはいえ、国民会議は完全にムスリム層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった[26]。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々にヒンドゥー色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。

バンガロールでのクイット・インディア運動英語版のデモ行進
伊号第二九潜水艦の士官・下士官とスバス・チャンドラ・ボース(1943年)

その結果、1930年ムハンマド・イクバールによる連盟ラホール大会での議長演説が「パキスタン構想」として、次第に支持されるようになり、ついに、1940年のラホール大会で、ジンナーは、二民族論英語版を含めたラホール決議英語版を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。

第二次世界大戦初期、イギリスはインドを懐柔することにより戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引き出すことを念頭においていた。しかし、ドイツ軍によるイギリス本土上陸が危惧されるなど、緊迫する戦争情勢がイギリスの大幅な妥協を用意せざるをえないようになった。1942年4月にロンドンから空路でデリーにスタッフォード・クリップスが派遣された(クリップス使節団英語版)。しかし、首相ウィンストン・チャーチルがイギリス帝国の解体を望まないこともあり、成果を上げなかった。

さらに1941年12月にマレー半島に進軍した日本軍が、早くも1942年2月にイギリスの極東における植民地の要のシンガポールを陥落し、さらにインド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫ったことで、アジアにおけるイギリスの軍事的威信は完全に失墜し、インドでも反英運動の機運が高まった。国民会議は1942年夏から反英闘争「インドから去れ運動英語版」を展開することで、インド独立を目指した[28]

インドに日本軍が迫る中、イギリスはインド情勢の急変に対して、徹底的な弾圧で対処した。戦時中にもかかわらず50大隊を導入し、反乱は6週間で鎮圧された[29]。全ての会議派のリーダーは約3年間拘束された[29]。投獄者数は1万人以上にも及んだ[30]。鎮圧されたとはいえ、この反乱の意義は、「民族感情が達していた深さと、人々がはぐくんだ闘争と犠牲の偉大な能力を示したという事実[31]」であった。

なお、アジア太平洋戦線においてイギリスと対峙していた日本と、元インド国民会議の急進派の活動家で、日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボースが、同じく日本に亡命していたA.M.ナイルや、日本軍らの協力を受けて東南アジア各地で日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士を集めて、1942年インド国民軍を設立した。

そして、ドイツに亡命していた元インド国民会議のスバース・チャンドラ・ボースが、1943年2月に大日本帝国海軍ドイツ海軍の協力を受けて、両国の潜水艦で日本軍の占領下のシンガポール(昭南)に移りこれを引き継ぎ、インパール作戦などでイギリス軍と対峙した。

ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代(1943年 - 1947年)

第19代副王として就任した陸軍元帥ウェーヴェル卿(就任期間:1943年10月1日 - 1947年2月21日)は、ドイツの降伏でヨーロッパにおける戦争が終結し、日本軍もアジア太平洋戦線で敗退を続け、日本軍の侵攻によるインド喪失の危機が無くなった1945年6月、インド帝国の夏の首都シムラーに、ガンディージンナー刑務所から釈放されたばかりの国民会議派のリーダーを招集した(シムラー会談英語版)。

シムラー会談において、イギリスは戦争に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの「ムスリム側の代表はムスリム連盟のみに限定されなければならない」という主張のために、会談は決裂した[32]。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した[32]

第二次世界大戦が終結した翌年の1946年になると、イギリスはインド統治の放棄の姿勢を見せるようになった。背景には、

  1. イギリスが超大国の座から既に転落していたこと。
  2. イギリスの経済力、軍事力の破綻。
  3. イギリスは、インド人官僚軍人からの忠誠を獲得できる見込みが小さくなってきたこと。
  4. インド民衆の自信

が挙げられる[33]

特に、第3点は重要であり、インド国民軍参加者への裁判の巨大な大衆デモの動員[33]、1946年2月のボンベイで起きたインド海軍の反乱[32][33] であった。

こうした中、1945年から1946年の冬、総選挙が実施された。この際の総選挙は分割選挙(ヒンドゥーとムスリムそれぞれが留保議席を保有する)であったが、国民会議とムスリム連盟の一騎討ちの様相を示した。国民会議は非ムスリム議席の90%を確保と8つの州で政権を掌握することに成功した[32]。一方、ムスリム連盟も中央議会のムスリム留保議席30を独占し、地方議会のムスリム留保議席500のうち442を獲得することに成功した[32]

国民会議と連盟の間の、いかなる妥協も見出せない状況を打開するために、イギリスは、1946年3月、閣僚使節団を派遣し、複雑な三層構造の連邦制案を提示した。東西のムスリム多数州(現在のパキスタンバングラデシュの領域)とヒンドゥーが多数を構成する中央部・南部(ヒンドゥスターン)にインドを分割し、それぞれの州に大幅な自治権を付与する案に対して、ジンナーは、賛意を表明した[32]。しかし、中央集権国家を目指した国民会議は、イギリスの案を一蹴した。ネルーによる7月10日の演説でその内容が明らかとなり、それぞれの州がヒンドゥー、ムスリムどちらの州に所属するかは自由に判断できるようにすべきであるという内容は、ジンナーの「パキスタン構想」を打ち砕くものであった[32]


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