イギリス領インド帝国
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年表
- 1858年:インド帝国成立。
- 1877年:イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任。
- 1885年:インド国民会議創立。
- 1886年 : ビルマを編入。
- 1905年:ベンガル分割令発表。
- 1906年:インド国民会議カルカッタ大会においてカルカッタ大会4大綱領が採択される。この動きに反発したイギリスは独立運動の宗教的分断を図つため、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させる。
- 1914~18年:第一次世界大戦中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。
- 1919年:ローラット法制定。インド統治法を制定。
- 1920年:国際連盟に加盟(原加盟国)[36]。
- 1925年:インド共産党結成。
- 1929年:インド国民会議ラホール大会においてプールナ・スワラージ(完全な独立)の方針を決定。
- 1930年:マハトマ・ガンディーが塩の行進を始める。
- 1935年:新インド統治法制定。
- 1939~45年:第二次世界大戦。
- 1937年 : ビルマ州を分離。
- 1945年:国際連合に加盟(原加盟国)[37]。
- 1947年8月15日:インド連邦とパキスタンが分離独立。
- 1950年:インドの共和制施行。
経済
イギリスを支えるインドの富
当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、「富の流失」に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが銀本位制を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた[38]。
頻繁に発生した飢饉
少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。
代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、1866年に発生したオリッサ飢饉、1869年のラージプーターナー飢饉、1873年に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉(1876–78 (英語版)、1896–1897 (英語版)、1899–1900 (英語版))が挙げられる。1854年から1901年の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計[39] があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。
植民地経済の形成
19世紀の後半にはインド経済は世界経済の一角に完全に組み込まれた。しかし、主な産品は、綿、インディゴ、ジュート、コメ、採油用種子、茶といった一次産品が多く、これらの輸出用作物の国際価格の変動は大きかった。綿は、南北戦争をはさむ前後20年間に価格が3倍に上がったが、1900年までには1/9まで下落した。インディゴは合成染料に代用されるようになり輸出産品としての価値を失い、インド経済を支える一次産品はジュートと茶であった[38]。
この時代のインド経済は輸出産品を生産する農業に大きく依存しており、工業転換はほとんど進まなかった。また、商品作物の生産のために、彼らが口にする穀物類は輸入に頼らざるを得なかった。穀物の生産を伸ばすことができたのはインダス川の灌漑が成功したパンジャーブ地方であった。パンジャーブ地方では、小麦、サトウキビ、トウモロコシの生産が伸び、海外向けのみならず、国内向けにも生産するようになった[38]。
イギリス東インド会社時代から続いていた鉄道の建設は引き続きインド国内で実施された。19世紀末におけるインドの鉄道総延長距離は世界で第5位になっており、商品作物の生産地と輸出港を結んだ。1887年に建設されたヴィクトリア・ターミナス駅(現名称チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅)がロンドン、メルボルンのヴィクトリア駅と同様の建築様式で建設されたことは、当時のインドがイギリス帝国の中心であったことの証である[38]。加えて、インドにおける鉄道網の整備によって、徐々にではあるが工業化の媒介となった。ゾロアスター教徒(パールシー)であったジャムシェトジー・タタは、1877年にナーグプルに紡績工場を建設し、その後、ムンバイやアフマダーバードにも紡績工場を建設した[38]。また、1907年にはビハールに、タタ・スチールを創業し[38]、現在のタタ・グループの原型が形成されたのもこの時代である。同様に、ラージャスターンのマールワールで商業活動を展開していたビルラ家も第一次世界大戦中に繊維工業、鉄鋼業に進出し成功を収めていった[38]。
イギリス領インド帝国は「イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石」とも表現された。1900年、カーゾン提督は、以下のように述べることでインドの重要性を訴えた。
"我々は、インド以外の全ての植民地を失っても生き延びることができるだろう。しかし、インドを失えば、我々の太陽は没するであろう[40]"
印僑の登場
インドからイギリスのインド以外への植民地に労働力人口が移動したのもこの時代である。彼らのことを印僑と呼ぶ。イギリスの植民地の中で、特に熱帯地域へ人口の移動が促進された。移住先として選ばれたのは、サトウキビ生産が活発だった西インド諸島(ジャマイカやトリニダード島)、錫生産や天然ゴムのプランテーションが発達したイギリス領マラヤ、あるいはケニアやザンジバルといった東アフリカ、南アフリカやモーリシャスといったインド洋沿岸地域、フィジーなどの太平洋地域にも人口の移動が促進された[38]。
その中で、東アフリカ貿易ルートで活躍したイスマーイール派のアーガー・ハーン一族やビルマとセイロン島で商業作物の開発に投資したナットゥコッタイ・チェッティヤールのように商業活動で成功した人々も登場した[38]。また、移住先でのインド人が人種差別で苦境に立たされていることを世論に喚起したマハトマ・ガンディーが登場した。
インド人の移動は、何も植民地に限定されていたわけではない。イギリス本国に留学しそのまま、現地にとどまった者も多い。ロンドンで弁護士業を開業し、その後、帰国した人物の中では、後のパキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーがいる。
南インドの経済の動向
北インドにおける手工業による綿織物産業は、イギリス東インド会社時代に崩壊し、その後、タタ一族などにより、工場制機械工業による紡績工業が勃興した。一方、南インドの手工業による手織業は、イギリスとの競争に巻き込まれることはなかったが、北インドの産業構造の転換により、ボンベイやアフマダーバードとの競争を余儀なくされた。その理由は北インドの綿織物工業の市場であったのは中国であったが、そこから駆逐されたことが理由である[41]。
そのため、南インドの手織業は、
- 上級階層向けの高級織物、この織物には金糸が使用された。
- 国内外の下層向けである廉価品で儀式などにも利用できるもの。これらには、人絹糸を使用した。
- 海外市場向けの色物
などに生産の中心を移した[41]。そのことにより、1920年以降の南インドの手織業に従事する人口は、マドラス州において、38万人前後(1911年)から30万人前後(1921年)を経て、49万人(1931年)と発展を遂げた[41]。南インドの手織物業が生き残ったのは、当時の南インド社会において、需要面での大きな変化、被差別カーストを含む下層階層の衣服着用の増大や人絹サリーへの需要の増大が挙げられる[41]。
第一次世界大戦以降、南インドの工場制機械工業による紡績業が勃興する。その中心は、アーンドラ地方やそれを含むタミル地域(タミル、カルナータカ)であった[41]。
社会運動
帝国時代は、様々な社会改革、宗教改革が展開した時代であった。その背景には、この時代のインドでは、人々が今まで知ることのなかった新しい市場、情報システム、ネットワークが形成されたこと[42]、民族主義的感情の成長、従来のカースト制度にとらわれない資本家層の台頭、近代教育の普及と西欧思想・文化の紹介、それらに伴うインドの後進性と衰退を意識せざるをえなくなったこと[43] がある。
ヒンドゥーの宗教改革
インドにおいて、最初の社会改革の運動はブラフモ・サマージである。ラーム・モーハン・ローイ(1774年-1833年)以来の伝統は、デベーンドラナート・タゴール(1817年-1905年)、ケショブ・チャンドロ・シェン(1838年-1884年)に受け継がれた。ブラフモ・サマージは、ヒンドゥーから悪弊を除去し、唯一神の信仰とヴェーダ、ウパニシャッド哲学の教えを根付かせることで、ヒンドゥーの改革に取り組んだ[43]。
ベンガル地方におけるヒンドゥーの宗教改革がブラフモ・サマージであるならば、マハーラーシュトラにおけるそれは、1840年に創設された神聖協会(バラマハンサ・マンダリー)である。ゴーパール・ハリ・デーシュムク(1823年-1892年)は、マラーティー語で執筆し、合理主義の立場から、ヒンドゥーの正統主義を批判した[43]。その後、デーシュムクは、祈祷協会(プラールトナー・サマージ)を創設し、伝統的なカースト制度と祭官の支配からの宗教を開放する試みが展開された。
マハーラーシュトラでは、ゴーパール・ガネーシュ・アーガルガル(1856年-1895年)というインド近代史上でもっとも偉大な合理主義活動者も活動しており、彼もまた、人間の理性の力を信奉すると同時に、伝統への盲従を批判した[43]。
南インドにもヒンドゥーの宗教改革が広がった。その中心はテルグ語地域の改革者ヴィーレーサリンガムの努力があった[43]。
ラーマクリシュナ(1834年-1886年)とその弟子であるヴィヴェーカーナンダ(1863年-1902年)の登場もまた、従来のヒンドゥーにより閉塞していたインド社会に対しての批判が展開された。ヴィヴェーカーナンダは、また、ラーマクリシュナ・ミッションを創設することにより、学校、病院、診療所、孤児院、図書館といった社会奉仕活動を展開した[43]。
ムスリムの宗教改革
イスラーム側の宗教改革はヒンドゥーに比べると遅かった。その端緒は、1857年のインド大反乱以降の時代であるとされる。1863年に、カルカッタで創設されたムハメダン文芸協会がその第一歩である。
インドで展開されたイスラーム側の宗教改革で重要なものの1つがアリーガル派による運動である。指導者サイイド・アフマド・ハーン(1817年-1898年)は、「ムスリムの宗教と社会生活は、近代西欧の科学知識と文化を吸収することによってのみ向上できる[44]」と考えていたため、近代教育の促進に取り組んだ。1875年にはアリーガル・ムスリム大学が創設された。この大学では、後に北西辺境州で民族運動を指導したハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン、第3代インド・副大統領であるザキール・フサイン、パキスタン建国において指導的な立場となったリヤーカト・アリー・ハーンといった指導者がここを卒業した。アリーガル大学は、全てのインド人に門戸が開かれていたため、ヒンドゥー、パールスィー、キリスト教徒も資金援助をした[44]。
西洋的な近代運動を展開したのが、アリーガル派の運動であるならば、伝統への回帰を進めたのがデオバンド派の運動である。1868年にデーオバンドで、神学校が創設された。ウルドゥー語を散文の公式後として教え、寄付を訴え、出版、年間行事を通して、広い地域で支持者を獲得していった[45]。
少数派の宗教改革
ヒンドゥー、ムスリムのみならず、パールスィーやシク教、仏教においても宗教改革が実施された。インド最大のパールスィーのコミュニティがあるボンベイでは、ダーダーバーイー・ナオロージー(1825年-1917年)などにより、ゾロアスター教徒改革者協会(ラーフナマーイ・マズダヤスナン・サバー)が創設され、保守化したゾロアスター教正統主義に対しての議論を巻き起こした[46]。
シク教の宗教改革は、19世紀末のカールサー・カレッジ創設を端緒とする。創設の中心には、パンジャーブ地方のマハラジャであるジャガトジート・シングの尽力があった。とはいえ、シク教の宗教改革が本格化したのは、1920年代のアカーリー運動を待つ必要があった。アカーリー運動において、シク教は、腐敗した僧正の放逐に成功していった[46]。
仏教徒が国民の多くを占めるセイロンでは、古代賛美の復古主義的傾向と仏教の危機を救えという宗教的情熱が高揚した。その結果、アナガーリカ・ダルマパーラ(1864年-1933年)が中心となって、草の根的な禁酒運動が展開された[47]。
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