20世紀のヴェッツラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 04:40 UTC 版)
「ヴェッツラー」の記事における「20世紀のヴェッツラー」の解説
工業化の進展につれ、都市は中世の市域を越えて拡大していった。1903年に広い工業地区と駅前地区を持つニーダーギルメスが合併した。 第一次世界大戦中に、市の中心部から約 2 km 南東のシュピルブルク(1310年に最初の文献記録が遺る)の裏手にロシアからの捕虜 15,000人以上を収容した第18軍団の捕虜収容所(ビュプリングスハウゼン戦争捕虜収容所)が設けられた。ここには特にウクライナの捕虜が収容された。将来ロシアに対抗する同盟相手となる可能性に配慮して、ここでは他よりも良い条件が提供された。この収容所から後にビュプリングスハウゼン地区が発展した。第一次世界大戦では540人のヴェッツラー市民が亡くなった。 第一次世界大戦終戦時にこの街の人口は 15,000人を超えた。交通問題が深刻化したため、旧市街の西に環状道路が建設され、これに伴ってラーン川に新しい橋が架けられたことで古い石造りの橋は交通量が軽減された。1932年までヴェッツラー郡はヘッセンのライン州(ドイツ語版、英語版)の飛び地であったが、この年にヘッセン=ナッサウ州(ドイツ語版)に編入された。1933年以後、シュタインドルフへの街道沿いに広大な新しい兵舎群が建設された。 ヴェッツラーに住むユダヤ人は、1933年の132人から1939年には46人となった。ヴェッツラーのユダヤ人の約半数がフランクフルトのゲシュタポ機関を経由して絶滅収容所に移送された。他の家族はアメリカ、南アフリカ、パレスチナ、フランスへ移住した。第二次世界大戦中、この街は工業重点都市(製鉄業、光学産業)として激しい爆撃の目標となった。特に駅前地区やニーダーギルメスへの攻撃は激烈であった。しかし、聖堂から見える旧市街は、ほとんどが爆撃を免れた。 ダルハイムでは戦争捕虜となった連合軍空軍兵士 (POW = Prisoners of War) のために1944年5月から1945年3月まで、空軍通過収容所「ドゥラーク・ルフト」が設けられた。捕虜たちは、ここでの尋問に基づいて捕虜収容所(シュタラーク)に分配された。 戦争中、ヴェッツラーでも軍需産業での強制労働が行われていた。爆撃を避けるために一部がハウザーベルクの地下に設けられた作業所での労働であった。第二次世界大戦の終結時点には、約4,000人から5,000人の強制労働者と戦争捕虜が市内に拘束されていたと推定されている。 第二次世界大戦後、ヴェッツラーには初めアメリカ部隊が、後にフランス部隊が進駐したが、引き続きアメリカ管理区域(ドイツ語版)に留まった。ドイツ再編の際にこの街は新たに創設されたヘッセン州に編入された。多数の故郷を追放された人や難民が流入したため、人口は倍増し、1950年代初めに人口3万人を超えた。早急に新しい住宅地の造成が必要となったため、一連の新たな住宅地区の開発や拡張が全市区で促進された。1951年から1953年までに西端に密集した住宅地が設けられた。1956年からは、一部が高層住宅からなり、少なくとも4,800人の住民を収容できる「ノイエ・ヴォーンシュタット」(直訳すると「新しい住宅都市」)の建設が始まった。1957年にナチス時代の旧国防軍兵舎(シュピルブルク兵舎およびジクスト=ヴォン=アーミン兵舎)に大規模な連邦軍駐屯地が設けられた。ここには、一時期約6,000人の兵士が駐屯した。1992年に駐屯地が廃止された後はミッテルヘッセンを管轄する郡防衛補充事務所(ドイツ語版、英語版)だけが残っている。 現在のダルハイム都市管区の母体は第一次世界大戦後に、ブデラスおよびレヒリング=ブデラスによってアルテンベルガー通り沿いに設けられたいわゆる「アルテンベルガー・コロニー」であった。付属の物置や庭付きの、当時としては進歩的なテラスハウスは両社の労働者に貸与されたものであった。1940年代末から1950年代初めに、幼稚園、遊戯広場、運動場を有するブレドウ住宅地や、アイヒェンドルフ=シューレを含むエスターライヒャー住宅地(ここで行われ、オーストリア大公カールがナポレオンの将軍ジョルダンに勝利したヴェッツラーの戦いを記念して命名された)がブデラス、ライツ、市によって建設された。1960年代にヴェッツラー市は、マルヒ教授とマウラー教授の設計に基づいて大規模なダルハイム新住宅地を建設した。新しい都市管区の拡充は1965年に始まった。 ヘッセン州の地域再編に伴って、1977年1月1日にヴェッツラーは隣接するギーセンおよび14の周辺市町村と合併し、新たにラーン市(ドイツ語版、英語版)として統合された。この郡独立市は人口約156,000人であった。しかし、特にヴェッツラー側からの激しい抵抗により、1979年7月31日にラーン市は解消され、ヴェッツラーは再び独自の都市となった。しかし地域再編が元に戻されたわけではなく、現在の市域は、以前のヴェッツラーにドゥーテンホーフェンとミュンヒホルツハウゼンとを加えたものである。ヴェッツラーは、旧ヴェッツラー郡とディレンブルク郡とが合併して成立したラーン=ディル郡の郡庁所在地となった。ヴェッツラー市に対して2011年9月に新たなナンバープレート略号「WZ」が認可され、2012年7月1日から交付されている。 1970年代に、長い伝統を持つラーン=ディル地方の鉄鉱石採掘は、産出の枯渇により終末を迎えた。その結果、1981年にブーデルの最後の高炉の火が消され、ヴェッツラーにおける銑鉄生産が終了した。増加を続ける輸入鉄鉱石が営業を採算の合わないものにしたのである。
※この「20世紀のヴェッツラー」の解説は、「ヴェッツラー」の解説の一部です。
「20世紀のヴェッツラー」を含む「ヴェッツラー」の記事については、「ヴェッツラー」の概要を参照ください。
- 20世紀のヴェッツラーのページへのリンク