1946年 - 1954年とは? わかりやすく解説

1946年 - 1954年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 06:09 UTC 版)

ハドソン・モーター・カー・カンパニー」の記事における「1946年 - 1954年」の解説

終戦後ハドソン1942年モデルの小改良生産再開したが、ビッグスリー各社先駆けモデルチェンジで完全戦後設計となった1948年式では「ステップダウン(step-down)」ボディ採用1954年式まで継続した。 「ステップダウン」とは、乗車部がペリメーターフレームの内側フレームよりも低い位置作られ階段一段下りるように乗車したところからつけられた。このため、より安全・快適で、しかも低重心のためハンドリングのよい乗用車となった有名な自動車ライターのリチャード・ラングワースが初期のステップダウンモデルについての記事で、「コンシューマーガイドやコレクティブル・オートモビルの記事取り上げられ当時すばらし自動車のひとつ」と紹介している。 ハドソン社は、ステップダウンモデルの頑丈軽量重心車体と、自社伝統の高トルク直列6気筒エンジン技術駆使し1951年から1954年まで高性能バージョンハドソン・ホーネット製造したホーネット当時自動車レース多く勝利を収め1951年から1954年までNASCAR主役だった。1950年代ハドソン残したNASCARレコードには現時点でもまだ破られていないものがある。高パワーウェイトレシオだったため、後にはドラッグレースでも活躍した生産終了から遙か後の1960年代至っても、NHRA地域のダートトラックイベントなどで活躍している(現在でもハドソンボンネビル・ソルトフラッツでのクラス記録保持している)。 しかし1950年代初頭には、北米の他自動車製造会社同様に中堅メーカーハドソン次第フォードGMクライスラービッグスリー競うことが難しくなった。大会社3社は、その資金力生産規模、そして極度に進歩的ではない構造自由度によって、新車開発外装面でのスタイル変更頻繁におこなうことができ、毎年新味のあるモデルチェンジ行っていた。3社に劣る中堅弱小メーカーでは、年度毎モデルチェンジでもわずかな変更しか行えず、頻繁なモデルチェンジ困難だったハドソンステップダウン型ユニットボディ構造は、1950年代初頭時点では頑丈先進的である一方で、その構造面での束縛によってスタイル変更難しく、また生産面でも高コストであったステップダウンモデル時流沿った大規模マイナーチェンジ実現は、実に1953年にまでずれ込んだ自社エンジンも古い直列6気筒直列8気筒サイドバルブ式で、パワフルさが売りホーネットですら、サイドバルブ6気筒を5リッターもの大排気量仕様としてチューニングを施すことで性能確保していたのが内実であった当時ロイ・D・チェイピン・シニアの後を継いで1936年からハドソン経営担っていたA.E.バリットは、ハドソン創業時からの叩き上げ社員ではあったが、あいにく購買部門の速記者上がり自動車技術にもマーケティングにも通じておらず、車の売れていた時代はともかく、苦境下でその不得手裏目に出た経営打開策としてステップダウン型のフルサイズモデルより一回り小型新型開発図られたが、保守的なバリット社長が有力ディーラー意見にも引きずられて開発方針口出しをした結果コンセプト迷走小さく低いボディ目指し技術者らの意図反し同時期の1952年フォード酷似してかつ腰高無個性スタイル堕した。また新車ではOHVエンジン常識化しつつあった当時新型車の3.3リッター6気筒エンジン1932年以来ハドソン8気筒元に2気筒減らした設計で、ベース同様古臭いサイドバルブであったハドソン社は既に設備投資割けるだけの資金力失っており、新コンパクト量産にあたっては、かつての大手コーチビルダーであったマーレイ後身・マーレイコーポレーション・オブ・アメリカにモノコックボディ生産外部委託なおかつマーレイボディ納品価格生産コスト上乗せ回収させることで、生産ツール要するハドソン側の初期投資支出抑える契約結んだのは、経営行き詰まり如実に表すものであった。 こうして1952年12月発表されたのがJetコンパクトカーシリーズで、ステップダウン系は廉価グレード廃止して中級上のグレードである「ホーネット」「コモドール」のみが生産続行された。だが、ジェット上記の芳しからざる開発経緯から、全体魅力乏し凡庸な車種となった標準装備品は充実していたもの価格面では割高で、ビッグスリー販売するフルサイズ大衆車シボレーフォードプリムス)の6気筒廉価モデル直接競合せねばならず、発売2年目には不人気となったジェット開発投資における敗退は、ハドソン社の経営大きな打撃与えた前述のリチャード・ラングワースはステップダウン・ハドソンとは対照的にジェットを「ハドソン沈没させた車」と酷評したほどである。もっとも、ジェット不振がなかったとしても、ビッグスリー攻勢に抗って独立系中堅メーカー単独苦境脱することは既に困難であった最終的にハドソン社は、1954年1月14日ナッシュおよびランブラー製造元であるナッシュ=ケルビネーター合併合意した

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