1946年 - 1954年
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「ハドソン・モーター・カー・カンパニー」の記事における「1946年 - 1954年」の解説
終戦後のハドソンは1942年モデルの小改良で生産を再開したが、ビッグスリー各社に先駆けたモデルチェンジで完全戦後設計となった1948年式では「ステップダウン(step-down)」ボディを採用、1954年式まで継続した。 「ステップダウン」とは、乗車部がペリメーターフレームの内側でフレームよりも低い位置に作られ、階段を一段下りるように乗車したところからつけられた。このため、より安全・快適で、しかも低重心のためハンドリングのよい乗用車となった。有名な自動車ライターのリチャード・ラングワースが初期のステップダウンモデルについての記事で、「コンシューマーガイドやコレクティブル・オートモビルの記事で取り上げられた当時のすばらしい自動車のひとつ」と紹介している。 ハドソン社は、ステップダウンモデルの頑丈で軽量低重心な車体と、自社伝統の高トルク直列6気筒エンジン技術を駆使し、1951年から1954年まで高性能バージョンのハドソン・ホーネットを製造した。ホーネットは当時の自動車レースで多くの勝利を収め、1951年から1954年までNASCARの主役だった。1950年代のハドソンが残したNASCARレコードには現時点でもまだ破られていないものがある。高パワーウェイトレシオだったため、後にはドラッグレースでも活躍した。生産終了から遙か後の1960年代に至っても、NHRAや地域のダートトラックイベントなどで活躍している(現在でもハドソンはボンネビル・ソルトフラッツでのクラス記録を保持している)。 しかし1950年代初頭には、北米の他自動車製造会社と同様に、中堅メーカーのハドソンも次第にフォード、GM、クライスラーのビッグスリーと競うことが難しくなった。大会社3社は、その資金力と生産規模、そして極度に進歩的ではない構造の自由度によって、新車開発と外装面でのスタイル変更を頻繁におこなうことができ、毎年、新味のあるモデルチェンジを行っていた。3社に劣る中堅・弱小メーカーでは、年度毎のモデルチェンジでもわずかな変更しか行えず、頻繁なモデルチェンジは困難だった。ハドソンのステップダウン型ユニットボディ構造は、1950年代初頭時点では頑丈で先進的である一方で、その構造面での束縛によってスタイル変更が難しく、また生産面でも高コストであった。ステップダウン系モデルの時流に沿った大規模マイナーチェンジ実現は、実に1953年にまでずれ込んだ。自社製エンジンも古い直列6気筒や直列8気筒のサイドバルブ式で、パワフルさが売りのホーネットですら、サイドバルブ6気筒を5リッターもの大排気量仕様としてチューニングを施すことで性能を確保していたのが内実であった。 当時、ロイ・D・チェイピン・シニアの後を継いで1936年からハドソンの経営を担っていたA.E.バリットは、ハドソン社創業時からの叩き上げ社員ではあったが、あいにく購買部門の速記者上がりで自動車技術にもマーケティングにも通じておらず、車の売れていた時代はともかく、苦境下でその不得手が裏目に出た。 経営打開策としてステップダウン型のフルサイズモデルより一回り小型の新型車開発が図られたが、保守的なバリット社長が有力ディーラーの意見にも引きずられて開発方針に口出しをした結果コンセプトが迷走、小さく低いボディを目指した技術者らの意図に反し、同時期の1952年型フォードに酷似してかつ腰高な無個性スタイルに堕した。また新車ではOHVエンジンが常識化しつつあった当時、新型車の3.3リッター6気筒エンジンは1932年以来のハドソン8気筒を元に2気筒を減らした設計で、ベース同様古臭いサイドバルブであった。ハドソン社は既に設備投資に割けるだけの資金力を失っており、新コンパクトの量産にあたっては、かつての大手コーチビルダーであったマーレイの後身・マーレイコーポレーション・オブ・アメリカにモノコックボディの生産を外部委託、なおかつマーレイがボディ納品価格に生産コストを上乗せ回収させることで、生産ツールに要するハドソン側の初期投資支出を抑える契約を結んだのは、経営の行き詰まりを如実に表すものであった。 こうして1952年12月に発表されたのがJetコンパクトカーシリーズで、ステップダウン系は廉価グレードを廃止して中級以上のグレードである「ホーネット」「コモドール」のみが生産続行された。だが、ジェットは上記の芳しからざる開発経緯から、全体に魅力に乏しい凡庸な車種となった。標準装備品は充実していたものの価格面では割高で、ビッグスリーが販売するフルサイズ大衆車(シボレー、フォード、プリムス)の6気筒廉価モデルと直接競合せねばならず、発売2年目には不人気車となった。 ジェット開発の投資における敗退は、ハドソン社の経営に大きな打撃を与えた。前述のリチャード・ラングワースはステップダウン・ハドソンとは対照的にジェットを「ハドソンを沈没させた車」と酷評したほどである。もっとも、ジェットの不振がなかったとしても、ビッグスリーの攻勢に抗って独立系中堅メーカーが単独で苦境を脱することは既に困難であった。 最終的にハドソン社は、1954年1月14日にナッシュおよびランブラー製造元であるナッシュ=ケルビネーターと合併に合意した。
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