1946以後の緊急難民収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:57 UTC 版)
「ギーセン」の記事における「1946以後の緊急難民収容所」の解説
アメリカ合衆国の軍事政府は、1945年10月末にグロース=ヘッセン州(ドイツ語版、英語版)政府に対して、1946年に約 60万人の放逐民や難民を州で受け容れるよう通知した。1946年2月初めに最初の 1,200人が貨車でこの街に到着した。最初は仮設の難民通過収容所が駅の近くに設けられた。ギーセンは重要な乗換駅であったため、難民問題特命官僚は、1947年5月7日にこの収容所をグロース=ヘッセンへ移住するすべての難民のための管理通過収容所とした。上級市長のオットー=ハインツ・エングラーは1948年にダルムシュタット行政管区長官に対して、難民のために市の社会福祉予算に大きな負荷がかかっているとして収容所の移転を請願した。その後市長のフーゴ・ロッツは州から市への政財支援を取り付けた。 1950年9月1日にこの収容所は、ギーセン緊急難民収容所と改名され、連邦全域を管轄地域とした。この当時、故郷を逐われた人々がギーセンの全住民の 20 % 近くを占めていた。ギーセン緊急難民収容所は、アメリカ管理地域への移住を希望するソヴィエト連邦管理地域からの難民の通過収容所でもあった。1960年代以降は、数多くの東ドイツからの出国者にとって最初の滞在地となり、1989年にハンガリー経由で亡命した東ドイツの人々が、その秋には合法的に解放された国境を越えて来た人々が殺到した。1986年にはこの施設は連邦受け容れ所と改名され、現在はヘッセン州の中央受け容れ所となっている。
※この「1946以後の緊急難民収容所」の解説は、「ギーセン」の解説の一部です。
「1946以後の緊急難民収容所」を含む「ギーセン」の記事については、「ギーセン」の概要を参照ください。
- 1946以後の緊急難民収容所のページへのリンク