1946年-1971年(天皇杯授与、実業団時代への移行)
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「天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会」の記事における「1946年-1971年(天皇杯授与、実業団時代への移行)」の解説
戦後最初の全日本選手権となった第26回(1946年度)は「復興第1回全日本選手権大会」として行われ、関東と関西の予選を勝ち進んだ2チームだけが5月5日の決勝大会に参加した。 1947年4月3日の「東西対抗試合」(関東と関西の選抜チームによる当時の一大試合)は昭和天皇が観覧し、翌1948年7月にはJFAが宮内庁から天皇杯を拝受した。当初こそ天皇杯は東西対抗試合の勝者に贈呈されていたが、第31回(1951年度)から全日本選手権の優勝チームに贈呈されるようになり、大会名も現在の「天皇杯全日本サッカー選手権大会」へと変わった。 第40回大会(1960年度)には古河電工が実業団チームとして初めて優勝した。この後、大学チームの優勝は第46回(1966年度)の早稲田大学が最後となり、以降は実業団およびプロクラブが占めている。 第44回(1964年度)は、AリーグとBリーグ(それぞれ5チーム)の1位同士により決勝戦を行うという試みが実施された。八幡製鉄と古河電工の試合は延長を経てもなお決着が付かず、両チーム優勝扱いとなった。大会の歴史上、リーグ戦が導入されたことも、優勝チームが複数出たことも、この回が唯一になっている。 第47回(1967年度)までは開催時期・決勝会場地ともばらつきがあった。藤枝市・藤枝東高や広島市・国泰寺高と高校のグラウンドで行われた年もある。 元日の明治神宮に250万人の参拝客(当時)が来るので、初詣帰りの1%でも来てもらえないか、と当時の長沼健らサッカー協会の幹部が思案して、第48回(1968年度)から年末開催とし、決勝戦を元日(1月1日)・国立霞ヶ丘競技場陸上競技場に変更。以降、決勝戦の元日国立競技場開催が定着した(国立での決勝戦開催はその第47回(1967年度)から。なお天皇杯元日決勝実施(1969年1月1日)の前年・1968年にはNHK杯サッカーが開催された。当該項参照)。
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