1624年 - 1642年
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「国王一座」の記事における「1624年 - 1642年」の解説
1624年、エリアード・スワンストンがエリザベス姫一座を脱退して国王一座に加入した。それまでにエリザベス姫一座から国王一座へ移籍したベテラン俳優には、ネイサン・フィールドやジョン・ライス、ジョーゼフ・テイラー(チャールズ王子一座を経てからの移籍)などがいる。スワンストンは国王一座在籍期間中(少なくとも1642年まで)オセローの役を演じていたという記録が残っている。 また1624年には、ロバート・ゴフの死やトマス・ミドルトン作の政治的な諷刺劇 "A Game at Chess" の上演といった出来事があった。ある劇団が1つの戯曲を2日続けて上演することのほとんどなかった当時としては、 "A Game at Chess" の公演は同年8月6日から16日までの日曜日を除く連続9日間という先例のないものであった。興行的には成功を収めたが、内容が過激だったために劇団関係者が枢密院から起訴・投獄され、罰金を課されるという事態にたちいたった。 1625年、国王一座は大きな不安の種を抱くこととなった。この年の3月27日に劇団のパトロンである国王ジェームズ1世が死去したのである。新国王チャールズ1世にはすでにお抱えの劇団チャールズ王子一座があったため、強力な後ろ盾をなくすのではないか、そもそも「国王一座」という名称を今後も使用できるのかと懸念せざるをえない事態である。しかし彼らの懸念をよそに、チャールズ1世は国王一座への後援を惜しまない旨をすぐに表明した。国王一座がすでに確立していた「国内最高の劇団」という名声の賜物である。チャールズ1世の即位ののち、チャールズ王子一座は解散して3人の俳優トマス・ホッブス、ウィリアム・ペン、アンソニー・スミスが国王一座に合流した。このように国王一座の高い声望に惹かれて他劇団から主力俳優が移籍してくることが多くなり、このころのロンドンの劇壇は事実上国王一座の一人勝ちのような状態となっていた。リチャード・パーキンスのように、新しい劇団ヘンリエッタ王妃一座の旗上げ(1625年)にさいして主演俳優となるため国王一座を離れる者もいた。 国王一座は1626年後半にマシンジャー作 "The Roman Actor" の初演を行なった。このときの出演者の1人に、新人の少年俳優ジョン・ハニーマン(当時13歳)がいる。その後3年にわたり、ハニーマンはロドウィック・カーレル作 "The Deserving Favorite" のクラリンダ役や、マシンジャー作 "The Picture" (いずれも1629年)のソフィア役など、数多くの女性役を演じた。しかし17歳になった1630年以降、ハニーマンはジョン・クラヴェル作 "The Soddered Citizen" のスライ役を皮切りに大人役へと転向し、その後女性役を演じることはなかった。1626年から1632年のあいだ国王一座で女性の役を引き受けていたもう1人の少年俳優にウィリアム・トリッグがいるが、その後の活動は知られていない。 1627年12月には最古参の1人ヘンリー・コンデルも鬼籍に入った。コンデルの死後、国王一座の所有する劇場ブラックフライヤーズ座とグローブ座の株式は遺族が相続することとなった。 1630年、以前から問題となっていたブラックフライヤーズ座と近隣住民の対立が再燃した。1631年にブラックフライヤーズ座の資産買収を検討する委員会が発足して、劇場の貸借期限が切れるまでの14年にわたる国王一座の不動産投資額を2,900ポンド13シリング4ペンスと評価した。しかしこの金額は劇場使用料とその利子を合計したものにすぎない。これに対して国王一座は自ら資産の明細を作成し、全体では委員会による評価額の7倍になる21,900ポンドになると反論し、劇場の不動産買収の動きを退けた。 1630年、ついにコンデルと並ぶ劇団の中心人物ジョン・ヘミングスまでもが死去。グローブ座とブラックフライヤーズ座の株式は息子のウィリアム・ヘミングスが相続した。5年後にウィリアム・ヘミングスは自分の株式を処分するが、これが劇団内に波紋を引き起こすこととなる。 新人の少年俳優スティーヴン・ハマートンが国王一座に参加した1632年は、リチャード・シャープが没した年でもある。もともと少年俳優であったシャープは『マルフィ公爵夫人』の初演と再演の両方に公爵夫人役で出演したのち、若い男性役に転じて主演俳優の座を務めているが、ハマートンもその後10年で同様の道を進むこととなる。 1633年には国王一座と宮廷祝典局長ウィリアム・ハーバートとのあいだで戯曲の内容をめぐったトラブルが起きている。フレッチャー作『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』( "The Woman's Prize" 、副題 "The Tamer tamed" 。シェイクスピア作『じゃじゃ馬ならし』の続編)が、「下品で侮蔑的な」内容であるとしてハーバートによって上演が禁止されたのである。国王一座は急遽演目をボーモント&フレッチャー作 "The Scornful Lady" に変更することとなった。10月21日、ハーバートは国王一座の演出家エドワード・ナイトに宛てて『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』の「冒涜的で下品な言葉」について記している。10月24日、ジョン・ローウィンとエリアード・スワンストンはハーバートに正式に謝罪した(ジョーゼフ・テイラーとロバート・ベンフィールドもこの会議に出席していたことが記録されているが、この二人はローウィンやスワンストンと異なり当該作品に出演していなかったため罪に問われず、謝罪をする必要はなかった)。この事件の後、国王一座は自分たちの旧作についても、再演に備えて台本をハーバートに提出して再検査を受けることにした。こうした措置自体も前例のないことであったが、要はハーバートにそれまで以上の謝礼を支払うようにしたということである。翌月フレッチャーの台本は適宜修正され、国王一座は11月26日と11月28日にセント・ジェームズ宮殿において『じゃじゃ馬ならし』と『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』の連続公演を国王夫妻の面前で行なった。ハーバート曰く、シェイクスピアの作品は「好評だった」が、フレッチャーの作品は「非常に好評であった」。 1634年4月7日、国王一座はジョージ・チャップマン作 "Bussy D'Ambois" の宮廷公演を行なった。エリアード・スワンストンが主演であったと伝えられている。このころの看板俳優はジョーゼフ・テイラーであったが、テイラーはすでに白いものが頭に混じりはじめており、主人公の若い情熱家を演じるのには不向きだったためである。この作品は1638年3月27日にも宮廷で再演された。 1635年、ウィリアム・ヘミングスは1630年に死去した父から相続した劇場の株式を売却することに決め、ブラックフライヤーズ座の2株とグローブ座の3株を(おそらく内密で)ジョン・シャンクに譲渡している。これを受けて、国王一座の俳優エリアード・スワンストン、トマス・ポラード、ロバート・ベンフィールドの3人が、宮内大臣である第4代ペンブローク伯フィリップ・ハーバートに対して、この株式を購入する機会を自分に与えてほしいと願い出た。この問題に関する事情を明らかにする資料として、これら3人の請願者やブラックフライヤーズ座の経営者カスバート・バーベッジ、ジョン・シャンクらのあいだで交わされた書簡が現存している。3人の請願者たちが劇団の株式(劇場の株式とは別である)の配当によってそれぞれ180ポンドの収入を前年に得ているというシャンクの証言など、1635年ごろの国王一座の経済事情を伝える情報がこれらの書簡から見て取れる。 3人が請願をはじめた時点でのブラックフライヤーズ座の株式(合計8株)配分は以下の通りである。シャンクが2株、テイラー、ローウィン、アンダーウッド、カスバート・バーベッジ、コンデル夫人、ウィニフレッド・ロビンソン(リチャード・バーベッジの未亡人で、リチャード・ロビンソンと再婚していた)の6人がそれぞれ1株ずつ。またグローブ座の16株は、カスバート・バーベッジとロビンソン夫人がそれぞれ3株半、シャンクが3株、テイラー、ローウィン、コンデル夫人が各2株を所有していた。ペンブローク伯ハーバートは、バーベッジとシャンクの抵抗を退け、問題の株式を請願者3人に売却するよう以前からの株主たちに命じた。 1636年、国王一座はチャールズ1世の巡幸に同行した。庇護者の旅の慰めとなるためだが、1636年から1637年にかけてロンドンで流行したペストとそれにともなう劇場の一時閉鎖期間をしのぐためという理由も加わっていた。この年、喜劇役者ジョン・シャンクが没している。 1630年代後半から国王一座は、ウィリアム・カートライト作 "The Royal Slave" (1636年)やジョン・サックリング作 "Aglaura" (1638年)のような、王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスお気に入りの廷臣たちによって書かれた作品も取り上げて上演するようになった。貴族の作品だけあって豪奢な衣裳が用意されたが、これらは報酬として劇団に払い下げられた。この時期から国王一座のレパートリーは貧弱になってゆく。新作が上演される機会は減ってゆき、ときおり舞台に載せられる新作はおおむね貴族たちが手慰みに書いたものばかりで、重要なのは作品の出来よりもそれを演じて助成金を得ることであった。
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