1624年 - 1642年とは? わかりやすく解説

1624年 - 1642年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 00:26 UTC 版)

国王一座」の記事における「1624年 - 1642年」の解説

1624年、エリアード・スワンストンがエリザベス一座脱退して国王一座加入したそれまでエリザベス一座から国王一座移籍したベテラン俳優には、ネイサン・フィールドやジョン・ライス、ジョーゼフ・テイラー(チャールズ王子一座経てからの移籍)などがいる。スワンストンは国王一座在籍期間中(少なくとも1642年まで)オセローの役を演じていたという記録残っている。 また1624年には、ロバート・ゴフの死やトマス・ミドルトン作の政治的な諷刺劇 "A Game at Chess" の上演といった出来事があった。ある劇団1つ戯曲2日続けて上演することのほとんどなかった当時としては、 "A Game at Chess" の公演同年8月6日から16日までの日曜日を除く連続9日間という先例のないものであった興行的に成功収めたが、内容過激だったために劇団関係者枢密院から起訴投獄され罰金課されるという事態にたちいたった。 1625年国王一座大きな不安の種を抱くこととなったこの年3月27日劇団パトロンである国王ジェームズ1世死去したのである新国チャールズ1世にはすでにお抱え劇団チャールズ王子一座があったため、強力な後ろ盾をなくすのではないかそもそも国王一座」という名称を今後使用できるのかと懸念せざるをえない事態である。しかし彼らの懸念をよそに、チャールズ1世国王一座への後援惜しまない旨をすぐに表明した国王一座がすでに確立していた「国内最高の劇団」という名声賜物である。チャールズ1世即位ののち、チャールズ王子一座解散して3人の俳優トマス・ホッブスウィリアム・ペンアンソニー・スミス国王一座合流したこのように国王一座高い声望に惹かれて他劇団から主力俳優移籍してくることが多くなり、このころロンドン劇壇事実上国王一座一人勝ちのような態となっていた。リチャード・パーキンスのように、新し劇団ヘンリエッタ王妃一座の旗上げ1625年にさいして主演俳優となるため国王一座離れる者もいた。 国王一座1626年後半にマシンジャー作 "The Roman Actor" の初演行なった。このときの出演者1人に、新人少年俳優ジョン・ハニーマン(当時13歳)がいる。その後3年にわたり、ハニーマンはロドウィック・カーレル作 "The Deserving Favorite" のクラリンダ役や、マシンジャー作 "The Picture" (いずれも1629年)のソフィア役など、数多く女性役を演じた。しかし17歳になった1630年以降、ハニーマンはジョン・クラヴェル作 "The Soddered Citizen" のスライ役を皮切りに大人役へと転向しその後女性役を演じことはなかった。1626年から1632年のあいだ国王一座女性の役を引き受けていたもう1人少年俳優にウィリアム・トリッグがいるが、その後の活動知られていない1627年12月には最古参1人ヘンリー・コンデルも鬼籍入ったコンデル死後国王一座所有する劇場ブラックフライヤーズ座とグローブ座株式遺族相続することとなった1630年以前から問題となっていたブラックフライヤーズ座と近隣住民対立再燃した1631年にブラックフライヤーズ座の資産買収検討する委員会発足して劇場貸借期限が切れるまでの14年にわたる国王一座不動産投資額を2,900ポンド13シリング4ペンス評価した。しかしこの金額劇場使用料とその利子合計したものにすぎない。これに対して国王一座は自ら資産明細作成し全体では委員会による評価額の7倍になる21,900ポンドになると反論し劇場不動産買収動き退けた1630年、ついにコンデルと並ぶ劇団中心人物ジョン・ヘミングスまでもが死去グローブ座とブラックフライヤーズ座の株式息子のウィリアム・ヘミングスが相続した5年後にウィリアム・ヘミングスは自分株式処分するが、これが劇団内に波紋引き起こすこととなる。 新人少年俳優スティーヴン・ハマートンが国王一座参加した1632年は、リチャード・シャープ没した年でもある。もともと少年俳優であったシャープは『マルフィ公爵夫人』の初演と再演両方公爵夫人役で出演したのち、若い男性役に転じて主演俳優の座を務めているが、ハマートンもその後10年同様の道を進むこととなる。 1633年には国王一座宮廷祝典局長ウィリアム・ハーバートとのあいだで戯曲内容めぐったトラブル起きている。フレッチャー作『じゃじゃ馬馴らし馴らされて』( "The Woman's Prize" 、副題 "The Tamer tamed" 。シェイクスピア作『じゃじゃ馬ならし』の続編)が、「下品で侮蔑的な内容であるとしてハーバートによって上演禁止されのである国王一座急遽演目ボーモント&フレッチャー作 "The Scornful Lady" に変更することとなった10月21日ハーバート国王一座演出家エドワード・ナイトに宛ててじゃじゃ馬馴らし馴らされて』の「冒涜的で下品な言葉」について記している。10月24日、ジョン・ローウィンとエリアード・スワンストンはハーバート正式に謝罪した(ジョーゼフ・テイラーとロバート・ベンフィールドもこの会議出席していたことが記録されているが、この二人はローウィンやスワンストンと異なり当該作品出演していなかったため罪に問われず、謝罪をする必要はなかった)。この事件の後国王一座自分たちの旧作についても、再演備えて台本ハーバート提出して再検査を受けることにした。こうした措置自体前例のないことであったが、要はハーバートそれまで上の謝礼支払うようにしたということである。翌月フレッチャー台本適宜修正され国王一座11月26日11月28日セント・ジェームズ宮殿において『じゃじゃ馬ならし』と『じゃじゃ馬馴らし馴らされて』の連続公演国王夫妻面前行なったハーバート曰くシェイクスピア作品は「好評だった」が、フレッチャー作品は「非常に好評であった」。 1634年4月7日国王一座ジョージ・チャップマン作 "Bussy D'Ambois" の宮廷公演行なった。エリアード・スワンストンが主演であった伝えられている。このころ看板俳優はジョーゼフ・テイラーであったが、テイラーはすでに白いものが頭に混じりはじめており、主人公の若い情熱家演じるのには不向きだったためである。この作品1638年3月27日にも宮廷再演された。 1635年、ウィリアム・ヘミングスは1630年死去した父から相続した劇場株式売却することに決め、ブラックフライヤーズ座の2グローブ座の3を(おそらく内密で)ジョン・シャンクに譲渡している。これを受けて国王一座俳優エリアード・スワンストン、トマス・ポラード、ロバート・ベンフィールドの3人が、宮内大臣である第4代ペンブローク伯フィリップ・ハーバートに対して、この株式購入する機会自分与えてほしいと願い出た。この問題に関する事情明らかにする資料として、これら3人の請願者やブラックフライヤーズ座の経営者カスバート・バーベッジ、ジョン・シャンクらのあいだで交わされ書簡現存している。3人の請願者たちが劇団株式劇場株式とは別である)の配当によってそれぞれ180ポンド収入前年得ているというシャンク証言など、1635年ごろの国王一座経済事情伝え情報がこれらの書簡から見て取れる。 3人が請願はじめた時点でのブラックフライヤーズ座の株式合計8配分以下の通りである。シャンクが2テイラー、ローウィン、アンダーウッド、カスバート・バーベッジ、コンデル夫人、ウィニフレッド・ロビンソン(リチャード・バーベッジ未亡人で、リチャード・ロビンソンと再婚していた)の6人がそれぞれ1ずつ。またグローブ座16は、カスバート・バーベッジとロビンソン夫人それぞれ3半、シャンクが3テイラー、ローウィン、コンデル夫人が各2所有していた。ペンブローク伯ハーバートは、バーベッジシャンク抵抗退け問題株式請願者3人に売却するよう以前からの株主たちに命じた1636年国王一座チャールズ1世巡幸同行した庇護者の旅の慰めとなるためだが、1636年から1637年にかけてロンドン流行したペストとそれにともなう劇場一時閉鎖期間をしのぐためという理由加わっていた。この年喜劇役者ジョン・シャンクが没している。 1630年代後半から国王一座は、ウィリアム・カートライト作 "The Royal Slave" (1636年)やジョン・サックリング作 "Aglaura" (1638年のような王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスお気に入り廷臣たちによって書かれ作品取り上げて上演するようになった貴族作品だけあって豪奢な衣裳用意されたが、これらは報酬として劇団払い下げられた。この時期から国王一座レパートリー貧弱になってゆく。新作上演される機会減ってゆき、ときおり舞台載せられる新作おおむね貴族たちが手慰み書いたものばかりで、重要なのは作品出来よりもそれを演じて助成金を得ることであった

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