1623年-1687年のバッキンガム公(ヴィリアーズ家)
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「バッキンガム公」の記事における「1623年-1687年のバッキンガム公(ヴィリアーズ家)」の解説
ついでバッキンガム公に叙されるのはステュアート朝のジェームズ1世の寵臣ジョージ・ヴィリアーズ(1592–1628)である。彼はジェントリの息子だったが、1614年に宮廷入りしてから急速に昇進し、主馬頭(英語版)や海軍卿などの要職を歴任した。爵位も急速に昇進し、1616年8月27日にはヴィリアーズ子爵(Viscount Villiers)、バッキンガム州におけるワッドンのワッドン男爵(Baron Whaddon, of Whaddon in the County of Buckingham)に叙位され、1617年1月5日にはバッキンガム伯爵(英語版)に叙位された。同年3月14日にはこの3つの爵位について自身の男系男子に次いで、同母兄弟ジョン・ヴィリアーズ(英語版)とクリストファー・ヴィリアーズ(英語版)の男系男子への継承が認められた。さらに1618年1月1日にはバッキンガム侯爵(Marquess of Buckingham)に叙され、そして1623年5月18日にはバッキンガム公爵とコヴェントリー伯爵(英語版)(Earl of Coventry)に叙位された。1627年8月27日にはバッキンガム公爵位とコヴェントリー伯爵位について男系男子に次いで、娘メアリー・ヴィリアーズ(英語版)の男系男子に継承が認められた。1625年に即位したチャールズ1世の下でも栄進し、スペインやフランスと戦ったが、成果を得られず議会の弾劾を受けるもチャールズ1世の介入で失脚を免れた。しかし1628年にはイングランド軍将校ジョン・フェルトン(英語版)に暗殺された。 父が暗殺された年に生まれた息子の第2代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ(1628–1687)は、清教徒革命中に王党派に属して一時国外亡命し、その後帰国するもイングランド共和国から投獄を受けた。王政復古後にチャールズ2世に登用されて初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドの失脚に一役買い、その後カバルと呼ばれる政権の一員となった。しかしカバル政権の不評と共に議会から批判の対象となり、1674年には罷免された。また彼は1667年に母からド・ロス男爵(英語版)を継承している。 1687年4月16日の彼の死後、帰属者未確定(abeyance)となったド・ロス男爵を除き、全ての爵位が継承者無く廃絶した。
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