1626年以降の追求の波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 09:56 UTC 版)
「ディーブルク」の記事における「1626年以降の追求の波」の解説
1626年に選帝侯ゲオルク・フリードリヒ・フォン・グライフェンクラウが初めてディーブルクを訪れた際、住民から悪魔信仰の悪習を根絶するよう指令して欲しいと請願された。 ディーブルクには悪魔信仰が疑われる人物が多くいると民衆の噂になっていた。住民を沈静化するために魔女狩りが始まった。最初のターゲットはマルティン・パットの未亡人で、彼女の母親はその20年前に魔女として火あぶりに処せられた。1627年6月26日に尋問がなされ、7月7日処刑された。パット夫人が多くの人物を共犯者として「自白」したため、ディーブルク、ゼーリゲンシュタット、アシャッフェンブルクで一連の新たな魔女狩りが始まった。 拷問台で脅迫により引き出された自白で、アイヒヴァーゼン・バイ・ディーブルク、フーメスビュール、グローセ・フォーメルが魔女の集会所と名指しされた。 被告人フィリップ・クレーマーは尋問に対し、証人たちの証言はすべて間違いで、悪魔信仰は迷信ではないと供述した。これにより1627年9月6日に彼は首を斬られ、死体を焼かれた。 1627年にはディーブルクで36人が処刑された。司祭ラウベンハイマーのメモには83人の「悪魔」が記されている。 1629年11月には新たな魔女狩りが行われ、21人の被疑者とその家族が完全に根絶させられた。
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