教皇ウルバヌス8世の元での制作
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「ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ」の記事における「教皇ウルバヌス8世の元での制作」の解説
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために制作された4体の彫刻群、つまり《アイネイアースとアンキーセース》(1618年 - 1619年)、《プロセルピーナの略奪》(1621年 - 1622年)、《ダヴィデ》(1623年 - 1624年)、《アポロとダフネ》(1624年 - 1625年)によって、ベルニーニは即座に名声を手にした。現在でも、4体共にローマのボルゲーゼ美術館に所蔵展示されている。 カルロ・マデルノのもとで建築に携わり、1623年、25歳の時に願ってもないチャンスが訪れる。バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世から「勝利の教会」の意思を表すような総合芸術を壮大な都市計画によって実現するために理想的な芸術家であるとみなされたベルニーニは、建築と彫刻と都市計画とが融合した一種の芸術を創造することになった。 こうして最初にウルバヌス8世から依頼されたのは、ビビアナー教会のための《聖女ビビアーナ像》(1623年)であった。続いて、16世紀の教会危機の後のカトリック教会の復活と勝利を表すため、カトリック教会の設立者である使徒聖ペトロの殉教の地であるサン・ピエトロ大聖堂が次なる芸術創造の場に選ばれた。それはミケランジェロやラファエロなど大巨匠による重要な作品の残る場でもあった。 教皇は、新しい祭壇がブロンズ製の巨大な天蓋(バルダッキーノ)に覆われることを望んでおり、ベルニーニの手によりにバルベリーニ家の紋章である蜂がちりばめられたらせん状の円柱をもつブロンズの巨大天蓋が、大理石の台の上に設置された(1624年 - 1633年)。これは、クアラントーレ(イエスの死から復活まで、つまり金曜の午後から日曜日の朝まで、連続して祈りを捧げる儀式)などで用いられた装飾品に着想を得たものだとされている。 1627年にはウルバヌス8世の記念碑的墓碑の建設が始められた。それは、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世の16世紀の墓碑と対照的に設置されたが、トリエント公会議を開始したパウルス3世と、教会改革を終わらせたウルバヌス8世とを象徴的に示すためであった。 1630年、師カルロ・マデルノの死後、パラッツォ・バルベリーニ(バルベリーニ宮殿)の仕事の後続を依頼され、フランチェスコ・ボッロミーニと協力して完成した。また1642年から1643年に《トリトーネの噴水》を制作した。これは彼の一連の噴水の最初の作例である。 だが1641年に、順風満帆だったベルニーニに落とし穴と挫折が待っていた。設計を担当したサン・ピエトロ大聖堂の鐘塔から大きな亀裂が見つかった。この失敗はローマ中をかけめぐるスキャンダルに発展。若くして美術界に君臨したベルニーニに対し、溜まっていた不満(嫉妬)が一気に爆発し「見かけばかりで実用をなさないベルニーニ」と批判された。
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