霊的穿刺(せんし)と聖痕
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「ピオ神父」の記事における「霊的穿刺(せんし)と聖痕」の解説
ピオ神父の手紙によると、聖職についた初めの頃から、後に神父を有名にする聖痕の不鮮明な徴候が既に現れていた。1911年、ピオ神父は、霊的な指導者であるサン・マルコ・イン・ラーミスのベネデット神父に手紙を書き、自身に1年間続いた経験についてこう書いている。 ”昨晩、私には説明することも理解することもできない、何かが起こりました。私の両手の掌の中央に、1チェンテシモ(1ペニー)ほどの大きさの赤い印が現れました。そしてその赤い印の真中は激痛を伴いました。その痛みは左手のまん中の方がより強烈で、未だにそれを感じるほどです。また、足の裏に若干の痛みがあります。” 親友アゴスティーノ神父は1915年にピオ神父に手紙を書き、ピオ神父がいつ幻視を最初に経験したか、いつ聖痕を受けたか、いつキリストの受難の痛み、すなわち茨の冠とムチの痛みを感じたか等の具体的な質問をした。ピオ神父は、修練時代(1903~1904)から幻視を見せられていたと答えた。また聖痕を受けたにも関わらず、それにひどくおびえた神父が、主にそれを消してくれるように頼んだと書いている。神父は痛みが取り除かれることを望まず、目に見える傷だけを取り除いてもらおうとした。目に見える傷は、言葉で表しようがなく、ほとんど耐えられない屈辱であると当時考えていたからである。目に見える聖痕はその時は消えたが、1918年9月に再発した。しかしその痛みは残り、日によって、また状況によってより激しくなったと述べている。また茨の冠とムチの痛みを実際に経験していると語った。この経験の頻度については、はっきりとは分からないが、1週間に1回、少なくとも数年間は苦しんでいると言った。 これらの経験はピオ神父の健康が衰える原因になったと言われている。またそのために、故郷にいることを許された。修道院から離れている間、修道士としての信仰生活を維持するため、神父は毎日ミサをあげ、学校で教育にあたった。 聖ファン・デ・ラ・クルスは、霊的穿刺現象を以下のように解説している。 ”熾天使によって火矢で貫かれるという内面的な攻撃を受けた者の魂は、神の愛によって燃えあがる。これは霊的な傷を残し、あふれ出る神の愛によって苦悩をもたらす。”(アビラの聖テレサの体験を元にした彫刻「聖テレジアの法悦」が有名) 第一次世界大戦がまだ続くなかで、大戦を「ヨーロッパの自殺」と呼んだベネディクトゥス15世教皇は、1918年7月、すべてのキリスト教徒に第一次世界大戦の終結を祈願するよう訴えた。同じ年の7月27日に、ピオ神父は戦争を終らせるために、自分自身を犠牲に捧げた。その後、8月5日から8月7日までの間、ピオ神父は、キリストが現れ、神父のわき腹を突き抜ける幻視を見た。この経験の結果、ピオ神父のわき腹には実際に傷ができた。この出来事は神の愛との結合を示す心臓への霊的穿刺と見なされている。 ちなみに、ピオ神父の脇腹の「心臓への霊的穿刺の傷」から出た血の痕のある、大きな額に入れられた正方形のリネンの布は、神父の第一級の聖遺物であり、シカゴのセント・ジョン・カンティアス教会で一般の崇敬のために公開されている。 霊的穿刺は、ピオ神父にさらなる7週間の長い精神的な動揺をもたらした。カプチン修道会士の仲間の1人は、その間の神父の状況をこのように語った。 ”その時、ピオ神父の全身の様相はまるで死んだように変わってしまい、絶えず泣いてため息をついては、神が自分を見捨てたと言っていました。” 1918年8月21日付のピオ神父からベネデット神父へあてた手紙では、霊的穿刺の間に起きた体験についてこう書かれている。 ”8月5日の夕方に男の子の懺悔を聞く間、突如として私の心眼に天上の人物が見え、恐怖を覚えました。その人物は手に、炎を放っているように見える非常に長い鋭くとがった鋼の刃を備えた一種の武器を持っていました。私がそれを見たまさしくその瞬間、その人物が力一杯その武器を私の魂に投げ付けるのが見えたのです。私はやっとのことで叫び声をあげ、このまま死んでしまうと思いました。具合が悪く、懺悔を続ける力がもはやなかったので、私は男の子に帰ってもらうよう頼みました。この苦しみは、7日の朝まで途切れずに続きました。私はこの苦悶の間にどのくらい苦しんだか、言葉にすることはできません。私の内臓さえも武器で引き裂かれ、破裂しました、何の容赦もありませんでした。その日以来、私は致命傷を負いました。魂の深いところでその傷口がいつも開いていて、継続的な苦しみをもたらすのを感じます。” 1918年9月20日に霊的穿刺の痛みが終わり、ピオ神父は深い安堵を得たと報告されている。その日、ピオ神父が聖母マリアの恩寵教会の聖歌隊席で祈りを捧げていると、神父に霊的穿刺を与えたのと同じ人物で、傷ついたキリストと思われる人物が再び現れ、ピオ神父はまた宗教的法悦を経験した。それが終った時、ピオ神父はキリストの5つの傷と同じ聖痕を体に受けていた。この時の聖痕は、その後の生涯の50年間、体から決して消えることはなかった。 1918年10月22日、聖ピオ神父は、霊的指導者であるサン・マルコ・イン・ラーミスのベネデット神父へあてた書簡で、以下のように聖痕を受けた際の経験を述べている。 ”先月の20日の朝、聖歌隊席でミサを捧げた後、私は甘い眠りに似たうとうとした状態に陥りました。私は8月5日の夕方に見たものと同じような神秘的な人物が、私の前にいるのを見ました。唯一の違いは、その人物の手と足と脇腹から血がしたたっていたことでした。そのありさまは私を怖がらせました、そしてその瞬間に私が感じたものは、言葉で言い表せません。もし主が介入して、胸から張り裂けてしまいそうな私の心臓を強くして下さらなければ、私は死んでいたはずだと思いました。その幻は消えました。そして私は手足と脇腹から血をしたたらせていることに気づきました。私がその時経験し、ほぼ毎日経験し続けている苦しみを想像してみてください。特に木曜日の夕方から土曜日まで、心臓の傷は絶えず出血しています。 親愛なる神父様、傷の痛みと魂の底からわきあがる恥ずかしさで、私は死にそうになっています。主が私の心からの祈りを聞き入れて、私をこの状態から解放して下さらないならば、出血多量で死ぬのではないかと思います。いと良き主は私にこの恩恵を与えて下さるでしょうか。主はこのような肉体の痕による恥ずかしさから少なくとも私を解放して下さるでしょうか。痛みに酩酊させられたいと私は願っているので、傷や痛みではなく、このような当惑と耐えられない屈辱をもたらすこの肉体の痕を、主がお慈悲によって取り除いて下さるまで、私は声を大にして懇願するのを止めないでしょう。” また彼はこう語っていた。”その痛みは、まるで十字架にかけられて死んでいくのではないかと思うほど、とても激しいものでした。” ピオ神父は秘かに苦しむ方がいいと思っていたが、1919年前半までに、聖痕のある修道士の話は俗世界に広まっていった。ピオ神父の傷は、医者を含む多くの人々によって調べられた。第一次世界大戦の後、生活を立て直し始めた人々は、ピオ神父を希望の象徴と見なし始めた。ピオ神父が、ヒーリング能力、バイロケーション、空中浮揚、予言、奇跡、睡眠と食事の驚異的な節制(ある報告によれば、1つの例として、ピオ神父が他に食事をとらず、聖餐だけで少なくとも20日の間生活することができたことをアゴスティーノ神父が記録しているとある。)、心を読む能力、語学の才能、異教徒を改宗させる能力、傷からの香りなど、さまざまな超自然的な能力を現し始めた、と周囲の人々は証言している。
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