霊的穿刺と聖痕とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 霊的穿刺と聖痕の意味・解説 

霊的穿刺(せんし)と聖痕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 16:44 UTC 版)

ピオ神父」の記事における「霊的穿刺(せんし)と聖痕」の解説

ピオ神父の手紙によると、聖職についた初めの頃から、後に神父有名にする聖痕不鮮明な徴候が既に現れていた。1911年ピオ神父は、霊的な指導者であるサン・マルコ・イン・ラーミスベネデット神父手紙書き自身1年間続いた経験についてこう書いている。 ”昨晩、私には説明することも理解することもできない、何かが起こりました。私の両手掌の中央に、1チェンテシモ(1ペニー)ほどの大きさの赤い印が現れました。そしてその赤い印の真中激痛伴いました。その痛み左手まん中の方がより強烈で、未だにそれを感じるほどです。また、足の裏若干痛みあります。” 親友アゴスティーノ神父1915年ピオ神父手紙書きピオ神父がいつ幻視最初に経験したか、いつ聖痕受けたか、いつキリスト受難痛み、すなわち茨の冠ムチ痛み感じたか等の具体的な質問をした。ピオ神父は、修練時代(1903~1904)から幻視見せられていたと答えた。また聖痕受けたにも関わらず、それにひどくおびえた神父が、主にそれを消してくれるように頼んだと書いている。神父痛み取り除かれることを望まず、目に見える傷だけを取り除いてもらおうとした。目に見える傷は、言葉表しようがなく、ほとんど耐えられない屈辱であると当時考えていたからである。目に見える聖痕その時消えたが、1918年9月再発した。しかしその痛み残り日によって、また状況によってより激しくなったと述べている。また茨の冠ムチ痛み実際に経験していると語った。この経験頻度については、はっきりとは分からないが、1週間1回少なくとも数年間は苦しんでいると言った。 これらの経験ピオ神父の健康が衰え原因になったと言われている。またそのために、故郷にいることを許された。修道院から離れている間、修道士としての信仰生活を維持するため、神父毎日ミサをあげ、学校教育あたった。 聖ファン・デ・ラ・クルスは、霊的穿刺現象を以下のように解説している。 ”熾天使によって火矢貫かれるという内面的な攻撃受けた者の魂は、神の愛によって燃えあがる。これは霊的な傷を残しあふれ出る神の愛によって苦悩もたらす。”(アビラの聖テレサ体験元にした彫刻聖テレジアの法悦」が有名) 第一次世界大戦がまだ続くなかで、大戦を「ヨーロッパ自殺」と呼んだベネディクトゥス15世教皇は、1918年7月すべてのキリスト教徒第一次世界大戦終結祈願するよう訴えた。同じ年の7月27日に、ピオ神父戦争終らせるために、自分自身犠牲捧げたその後8月5日から8月7日までの間、ピオ神父は、キリスト現れ神父わき腹突き抜ける幻視見た。この経験結果ピオ神父わき腹には実際に傷ができた。この出来事神の愛との結合を示す心臓への霊的穿刺と見なされている。 ちなみにピオ神父脇腹の「心臓への霊的穿刺の傷」から出た血の痕のある、大きな額に入れられ正方形リネンの布は、神父第一級聖遺物であり、シカゴのセント・ジョン・カンティアス教会一般崇敬のために公開されている。 霊的穿刺は、ピオ神父さらなる7週間長い精神的な動揺もたらしたカプチン修道会士の仲間1人は、その間神父状況このように語った。 ”その時ピオ神父全身様相はまるで死んだように変わってしまい、絶え泣いてため息をついては、神が自分見捨てたと言っていました。” 1918年8月21日付のピオ神父からベネデット神父へあてた手紙では、霊的穿刺の間に起きた体験についてこう書かれている。 ”8月5日夕方男の子懺悔聞く間、突如として私の心眼天上人物見え恐怖覚えましたその人物は手に、炎を放っているように見える非常に長い鋭くとがった鋼の刃を備えた一種武器持っていました。私がそれを見たまさしくその瞬間その人物が力一杯その武器を私の魂に投げ付けるのが見えたのです。私はやっとのことで叫び声をあげ、このまま死んでしまうと思いました具合悪く懺悔続ける力がもはやなかったので、私は男の子帰ってもらうよう頼みました。この苦しみは、7日の朝まで途切れず続きました。私はこの苦悶の間にどのくらい苦しんだか、言葉にすることはできません。私の内臓さえも武器引き裂かれ破裂しました何の容赦もありませんでしたその日以来、私は致命傷負いました。魂の深いところでその傷口がいつも開いていて、継続的な苦しみもたらすのを感じます。” 1918年9月20日霊的穿刺痛み終わりピオ神父は深い安堵得た報告されている。その日ピオ神父聖母マリア恩寵教会聖歌隊席で祈り捧げていると、神父霊的穿刺与えたのと同じ人物で、傷ついたキリスト思われる人物が再び現れピオ神父はまた宗教的法悦経験した。それが終った時、ピオ神父キリスト5つの傷と同じ聖痕を体に受けていた。この時の聖痕は、その後の生涯50年間、体から決し消えことはなかった。 1918年10月22日、聖ピオ神父は、霊的指導者であるサン・マルコ・イン・ラーミスベネデット神父へあてた書簡で、以下のように聖痕受けた際の経験述べている。 ”先月20日の朝、聖歌隊席でミサ捧げた後、私は甘い眠り似たうとうとした状態に陥りました。私は8月5日夕方見たものと同じよう神秘的な人物が、私の前にいるのを見ました唯一の違いは、その人物の手と足と脇腹から血がしたたっていたことでした。そのありさまは私を怖がらせました、そしてその瞬間に私が感じたものは、言葉言い表せません。もし主が介入して、胸から張り裂けてしまいそうな私の心臓強くして下さらなければ、私は死んでいたはずだと思いました。その幻は消えました。そして私は手足脇腹から血をしたたらせていることに気づきました。私がその時経験し、ほぼ毎日経験し続けている苦しみ想像してみてください。特に木曜日夕方から土曜日まで、心臓の傷は絶え出血してます。 親愛なる神父様、傷の痛みと魂の底からわきあがる恥ずかしさで、私は死にそうになってます。主が私の心から祈り聞き入れて、私をこの状態から解放して下さらないならば、出血多量で死ぬのではないか思います。いと良き主は私にこの恩恵与えて下さるでしょうか。主はこのような肉体の痕による恥ずかしさから少なくとも私を解放して下さるでしょうか痛み酩酊させられたいと私は願っているので、傷や痛みではなくこのような当惑と耐えられない屈辱もたらすこの肉体の痕を、主がお慈悲によって取り除いて下さるまで、私は声を大にして懇願するのを止めないでしょう。” また彼はこう語っていた。”その痛みは、まるで十字架かけられ死んでいくのではないかと思うほど、とても激しいものでした。” ピオ神父秘かに苦しむ方がいいと思っていたが、1919年前半までに、聖痕のある修道士の話は俗世界広まっていった。ピオ神父の傷は、医者を含む多く人々によって調べられた。第一次世界大戦の後、生活を立て直し始めた人々は、ピオ神父希望象徴見なし始めたピオ神父が、ヒーリング能力バイロケーション空中浮揚予言奇跡睡眠食事驚異的な節制(ある報告によれば1つの例として、ピオ神父が他に食事をとらず、聖餐だけで少なくとも20日の間生活することができたことをアゴスティーノ神父記録しているとある。)、心を読む能力語学才能異教徒改宗させる能力、傷からの香りなど、さまざまな超自然的な能力現し始めた、と周囲人々証言している。

※この「霊的穿刺(せんし)と聖痕」の解説は、「ピオ神父」の解説の一部です。
「霊的穿刺(せんし)と聖痕」を含む「ピオ神父」の記事については、「ピオ神父」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「霊的穿刺と聖痕」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

霊的穿刺と聖痕のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



霊的穿刺と聖痕のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのピオ神父 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS