開催前の状況
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「第24回マイルチャンピオンシップ南部杯」の記事における「開催前の状況」の解説
2011年3月11日に発生した東日本大震災で、盛岡競馬場・水沢競馬場での競馬開催を主催する岩手県競馬組合も大きな被害を受け、取り分け水沢競馬場や沿岸部を中心とする場外馬券売場等の施設が大きく損壊した。震災後まもなく開幕予定だった競馬開催も延期に追い込まれた。5月に入り、盛岡での競馬開催は開始されたものの、依然として水沢競馬場など一部施設は復旧が間に合わず、岩手県競馬の経営にも大きな影を落とすことになった(当時存廃の議論が取り沙汰されていた岩手県競馬の存続は収支の均衡が条件であったが、これは施設修繕費の地方競馬全国協会からの支援や諸経費削減等で賄われた)。 6月23日、日本中央競馬会(JRA)と岩手県競馬はマイルチャンピオンシップ南部杯(以下、MCS南部杯)を盛岡競馬場と業務提携を結んでいる東京競馬場に舞台を移し、10月10日に施行する方向で調整していることが明らかになった。 6月29日、JRAは甚大な被害を受けた岩手県競馬を支援するため、同年10月10日(祝・月)に「岩手競馬を支援する日」として第4回東京競馬3日目を開催し、当日のメインレースにMCS南部杯を代替開催することを正式に発表した。 9月12日には「岩手競馬を支援する日」の詳細がJRAより発表され、全レースがJRAプレミアムレースと同じ扱いになり、WIN5も発売されること、特別競走に岩手県競馬の名馬の名前を冠した「メイセイオペラ記念 かけはし賞」「トーホウエンペラー記念 かがやき賞」が編成されることが明らかになった(後述)。 JRAでの代替開催に当たって、通常出走枠は「中央競馬所属馬7頭、岩手所属馬4頭、岩手以外の地方競馬所属馬5頭」とされているところを本年のみ「地方競馬所属馬5頭(うち岩手所属馬2頭まで)」に改められ、岩手から2頭、高知から2頭が出走した。 出走馬の人気はドバイワールドカップからの帰国初戦となったトランセンドが単勝オッズ1.6倍と一本被りの様相で、以下、エスポワールシチー、ダノンカモンまでが単勝オッズ1桁台の人気に収まった。前年の勝ち馬オーロマイスターは近走が案外で6番人気と目立った人気にはならなかった。
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開催前の状況
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「1928年アムステルダムオリンピックの陸上競技・女子800m」の記事における「開催前の状況」の解説
オリンピックの陸上競技には元々、女子の出場が認められず、アリス・ミリア率いる国際女子スポーツ連盟(FSFI)が女子オリンピック大会を開催して成功を収め、IOCや国際陸上競技連盟(IAAF)と交渉して1928年アムステルダムオリンピックで5種目ながら女子が出場できる種目を勝ち取った。その5種目とは、100m、800m、走高跳、円盤投、4×100mRであった。女子800mはこのオリンピックまで国際大会での開催例が少なく、どんな試合展開になるのかが期待されていた。 開催前の世界記録は、リナ・ラトケ(ドイツ)が1927年にマークした2分23秒7であった。ラトケは800mを専門としながら、短距離走でも世界記録を樹立したことがあり、円盤投、走幅跳、砲丸投でも好記録を持つオールラウンダーで、カールスルーエのサッカーチームにも入団していた。 1926年にスウェーデン・ヨーテボリで開かれた第2回女子オリンピック大会に単身出場した日本の人見絹枝(大阪毎日新聞所属)は、走幅跳で5m50の世界新記録で優勝したほか、立幅跳でも2m49で優勝、円盤投で準優勝、100ヤードで3位の成績を収め、個人総合で優勝し、たった1人で国別順位でも5位を獲得した。こうして「世界のヒトミ」が誕生し、第15回全日本陸上競技選手権大会(大阪市立運動場)で100mと走幅跳で世界記録を更新して優勝、日本代表に選抜された。人見はオリンピック開催種目に走幅跳がないことを知っていたため、1927年より谷三三五コーチの下で100mの技術を磨いてきた。 事実上、100m一本に絞ってアムステルダムオリンピックに臨んだ人見であったが、7月30日の準決勝で4位となり、敗退した。ザンダムの宿舎で泣き明かした人見は「このままでは日本に帰れない」と考え、エントリーだけはしてあった800mへの出場を竹内廣三郎監督(京都師範学校教諭)に懇願した。800mの出場経験がない人見が世界のトップレベルの選手と争おうとするのを竹内は反対したが、人見の意志は固く、最後には竹内が折れた。そして竹内と男子日本代表が集まって、出場経験のない人見のためにダグラス・ロウ(イギリス)を模範とした800mの走法と戦略を叩き込んだ。
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開催前の状況
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「1928年アムステルダムオリンピックの陸上競技・男子三段跳」の記事における「開催前の状況」の解説
前回1924年パリオリンピックでは、ニック・ウィンター(オーストラリア)が15m525の世界新記録・オリンピック新記録を跳んで優勝していた。アムステルダムオリンピックにもウィンターは出場するが、練習中に左脚膝関節を負傷し、その傷が癒えぬまま出場することを余儀なくされ、「自分には勝算はないが、自分が出ないとチームの士気に関わるので出る」と競技前に語り、勝つ見込みのある選手は、日本の織田幹雄(早稲田大学競走部所属)かビルホ・ツーロス(フィンランド)だろうと話した。ウィンターに名を挙げられた織田は、パリオリンピックの14m35から1927年には15m52まで記録を伸ばし、十分優勝圏内だと見られていた。さらに1928年のオリンピック予選で15m41を跳び、アムステルダム入りした後も好調をキープしていたことから、日本人の間で「もしかしたら」という思いが高まっていた。ウィンターが挙げたもう1人のツーロスは、オリンピックの国内予選で15m57の世界新記録を叩き出しており、体格や跳躍力では織田よりも格上だった。 このほか、エリッキ・ヤルヴィネン(英語版)(フィンランド)とリーヴァイ・ケーシー(アメリカ)が有力選手と見られ、もう1人の日本代表である南部忠平(早大所属)も決勝進出が期待されていた。ただし南部本人はスランプに陥っており、前年の9月には人見絹枝から走幅跳の勝負を挑まれ、1cm差で敗北するという苦しみを抱えていた。 この種目は、陸上競技の開幕から5日目に開催された。当日の午後は、男子三段跳のほか、住吉耕作(早大所属)が出場する男子やり投、人見絹枝(大阪毎日新聞所属)が出場する女子800m決勝も実施されており、日本人の観戦者にとってはどれに注目すべきか悩ましいところであった。なお、前日夜の雨で土の助走路は濡れて柔らかくなっており、選手たちはこの柔らかい助走路をどう攻略するかに苦心することとなる。 なお、当時の日本に「三段跳」という言葉はなく、英語のhop step and jumpをそのままカタカナにした「ホップステップアンドジャンプ」を正式な種目名とし、あまりに長いので新聞では「ホ・ス・ジャンプ」と略記し、選手間では「ホスジャン」と呼んでいた。これに日本語名を付けようと1929年に関東学生陸上競技連盟の北沢清が提案し、織田が考案した「三段跳」の名が採用され、定着した。
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