竹内廣三郎とは? わかりやすく解説

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竹内廣三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 14:29 UTC 版)

竹内 廣三郎
選手情報
フルネーム 竹内 廣三郎
ラテン文字 TAKENOUCHI Hirosaburo
国籍 日本
種目 十種競技
大学 東京高等師範学校
生年月日 1891年
生誕地 滋賀県[1]
没年月日 (1931-02-24) 1931年2月24日(40歳没)
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竹内 廣三郎(竹内 広三郎、たけのうち ひろさぶろう、1891年 - 1931年2月24日)は、滋賀県出身の陸上競技選手・指導者、サッカー選手。

経歴

滋賀師範学校を経て、東京高等師範学校に進学。東京高師在学中は陸上・十種競技の選手として第3回および第4回の極東選手権競技大会に出場した他、1917年および1918年の日本陸上競技選手権大会で2年連続優勝した。

また、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)にも所属し、1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され、主将として2試合に出場した(そのうちの1試合がフィリンピン代表に2-15で敗れた試合である)[2]

東京高師を卒業後、愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)教諭、京都師範学校教諭や大阪体育協会の主事などを歴任。1924年に大阪毎日新聞からの依頼でパリ五輪のサッカーの取材を行った。1928年アムステルダムオリンピックでは陸上競技チームの総監督を務めた。

1930年冬より風邪で療養していたが、1931年2月24日に死去した[3]

所属クラブ

サッカー代表歴

出場大会

試合数

  • 2試合 0得点 (1917)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1917 0 0 2 0 2 0
通算 0 0 2 0 2 0

著書

  • 芬蘭のランニング』廣文堂、1926年1月。 

脚注

  1. ^ 東京高等師範学校一覧 大正10年度 (p.七七ノ六七) 2016年10月2日閲覧
  2. ^ 第3回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2014年7月10日閲覧。
  3. ^ 「竹内廣三郎氏が死去」 朝日新聞 (1931年2月26日) 2021年7月23日閲覧

関連項目

外部リンク




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