第3回極東選手権競技大会のサッカー競技 日本対フィリピン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 13:33 UTC 版)
大会名 | 第3回極東選手権競技大会 | ||||||
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開催日 | 1917年5月10日 | ||||||
会場 | 芝浦[1](東京, 日本) | ||||||
主審 | ワイルズ |
第3回極東選手権競技大会のサッカー競技 日本対フィリピン(だい3かいきょくとうせんしゅけんきょうぎたいかいのサッカーきょうぎ にほんたいフィリピン)では、1917年5月10日に、第3回極東選手権競技大会のサッカー競技において実施された、日本がフィリピンに2対15で敗れた試合について説明する。
日本チームは東京高等師範学校からの選抜選手であった。一方フィリピンチームは、パウリーノ・アルカンタラがおり、フィリピンをサッカーの国際試合における最大記録となる勝利に導いた。この試合は現在までサッカー日本代表の最多失点試合[2]、最大差敗戦試合である。
会場となった芝浦運動場は、東京府東京市芝区芝浦の埋立地(現・東京都港区海岸2丁目、日の出桟橋付近)だった[3]。
当時の実力差は明確であり、日本チームは前日の中華民国戦で相手がコーナーキックをヘディングでシュートするのを見て、初めてその技術を知ったという[4][注釈 1]。前半に日本は1得点、フィリピンは5得点。後半は日本は1得点、フィリピンは10得点を記録した[6]。
この年の東京は気温が低くフィリピン選手たちは寒さに苦しんだ[2][7]。加えて当日は強風でピッチから砂塵が舞う悪いコンディションであった[5]。これらの悪条件にもかかわらず、先攻のフィリピン代表は開始3分で先制、その後もゴールを積み重ねた[5][7]。当時の試合は1時間(前半30分、後半30分)だったので、フィリピンは事実上4分おきにゴールを決めた[7]。これに対して日本代表は、いずれも藤井春吉による2ゴール(前半は渡邊敏綱、後半は額田登からのパスによる)のみに終わった[5]。日本を応援しにやって来た観衆からもさすがに非難の声があがり[4]、日本人記者は明らかに腹を立ててフィリピンが5点目を決めたあとは得点者の記録を止めたという[7]。
詳細
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脚注
注釈
出典
- ^ “Japan National Football Team Results: 1910-1919” (英語). Football Japan. p. 29 December 2012. 2001年12月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月17日閲覧。
- ^ a b c 後藤健生 (2018年10月25日). “フィリピンvs日本 熱闘の記録 最多得点記録と最多失点記録”. サッカーキング. 2025年5月22日閲覧。
- ^ 日本バスケットボール振興会普及部「日本で初めて開催された国際競技大会―100年前の第3回極東選手権競技大会―」『バスケットボールプラザ vol.76 (PDF) 』日本バスケットボール振興会、2017年11月、pp.17 - 19
- ^ a b 中倉一志 (2003年6月16日). “初の国際試合 ~第3回極東選手権大会”. 2002world.com. 2014年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月6日閲覧。
- ^ a b c d 「蹴球の覇権支那に落つ」『柔道』第3巻第6号、柔道会本部、1917年6月、73-75頁。(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “代表TIMELINE”. 日本サッカー協会. 2025年4月5日閲覧。
- ^ a b c d “Third Far Eastern Games 1917 (Tokyo)” (英語). RSSSF. 2025年4月7日閲覧。
- ^ a b c 「競技記録 第三日/蹴球/庭球」『朝日新聞』1917年5月11日夕刊
関連項目
- 筑波大学蹴球部
- 1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技・アジア予選 日本対フィリピン(1967年9月27日)
- 第3回極東選手権競技大会のサッカー競技_日本対フィリピンのページへのリンク