錬心舘の創設とその後
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1955年(昭和30年)保勇と島袋善良(後の「少林流聖武館」)、仲里常延(「少林寺流求道館」)の3名は、空手の源流は中国少林寺であるということから、喜屋武朝徳直伝の流儀を少林寺流と命名。保は鹿児島に戻り、同年11月8日に鹿児島市高麗町にて「少林寺流空手研究会錬心館道場」(後の「全日本少林寺流空手道連盟錬心舘」の前身)を立ち上げた。 1959年(昭和34年)には熊本県で開催された全日本拳法空手道九州連盟(千唐流・千歳剛直)主催の第一回九州空手道選手権大会に参加し、錬心舘においては初の他流派の大会出場となった。結果は団体戦優勝であったが、個人戦に於いて、後ろ回し蹴り、螺旋(らせん)手刀打ち(参考1、参考2)などの技は無効扱いとなったのに憤慨した保勇は、錬心舘選手団を率いて試合会場から出ていったという。 1960年(昭和35年)1月、読谷村謝刈にあった島袋善良の島袋道場で、当時の全日本空手道連盟理事であった保勇が仲立ちとなって、全日本空手道連盟沖縄地区特別本部結成の会合が開かれ、中村茂(沖縄拳法)が最高師範に就任した。また顧問には兼島信助(渡山流)、与那覇政牛、会長は島袋善良、副会長には仲村寛、仲里常延、特別技術部長には組手技の評価を買われて、沖縄県外の保勇が就任。 同年3月に福岡市で開催された第二回九州選手権大会では、錬心舘団体チームの高校生(二段)が緒戦の西日本鉄道チーム(他流派)との対戦で二段蹴りの要領で飛び上がって後ろ廻し蹴りを上段に決め、相手選手が担架で運ばれることとなり、列席していた中央空手界の役員も錬心舘の組手技術に驚いたというエピソードが残っている(出典:昭和50年9月20日発行 勤労者空手道講座『道統を語る(その二)』)。 1962年(昭和37年)7月、鹿児島県空手道連盟を結成。第一回鹿児島県空手道選手権大会を開催。 1963年(昭和38年)10月、西日本空手道連盟を結成し会長に就任。 1964年(昭和39年)9月、全国空手界に先がけ、鹿児島県空手道連盟を県体育協会に加盟。 1965年(昭和40年)12月、保勇が、当時は「竹のカーテン」といわれ、日本と国交がなかった中華人民共和国(「日中国交正常化」は1972年)の中国武術界から招聘を受けて、戦後、武道家として初めて中国を訪問。約40日間にわたり広州、長沙、北京、西安、延安、杭州、上海において日本空手道を公開するとともに中国武術界の最高峰、王子平をはじめ全国武術総会副主席の張文広との会見など中国武術各派と交流した。 1967年(昭和42年)8月、第一回少林寺流全国空手道選手権大会を鹿児島市にて開催。 1968年((昭和43年)10月、群馬県前橋市県スポーツセンターにおいて国民体育大会への参加をめざして各流各派が参加して開催された、第一回全国都道府県空手道選手権大会(主催:全国都道府県空手道連盟、主管:群馬県空手道連盟、後援:全日本空手道連盟・会長笹川良一)に保勇を団長とする錬心舘のメンバーで編成された鹿児島県空手道連盟選手団が防具の部で優勝、無防具の部で準優勝して以来、保勇は組手においては防具を着用するべきであるという考えであり、当時の全日本空手道連盟は防具付き空手から寸止め空手への方向転換をしていることから全空連には加盟しないことになり、以後、錬心舘は一流一派として一貫して防具付組手試合を推進することとなった。 1994年(平成6年)10月、体育功労者として文部大臣賞を受賞。 2000年(平成12年)4月に勲四等瑞宝章を受章したが、その頃より体調を崩し、同年5月31日に死去(没年81歳)。
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