錬武会と錬心舘、硬式空手の分岐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:46 UTC 版)
「防具付き空手」の記事における「錬武会と錬心舘、硬式空手の分岐」の解説
全日本空手道連盟(旧)が成立したものの、当時の防具はまだ危険度も高く、安全性の高い寸止め空手が中体連、高体連に浸透したこともあり、松濤館流、和道流、剛柔流、糸東流の四大流派と諸派が中心となって新たに全日本空手道連盟が昭和39年に成立(昭和44年には法人の認可を取得して、財団法人全日本空手道連盟となる)。それまでの全日本空手道連盟(旧)は日本空手道錬武会として全空連の協力団体となった。その前年には寸止め空手各派との対応を巡り、全日本空手道連盟(旧)の西日本地区で内部分裂が発生。錬心舘の保勇が西日本の分裂した各派をまとめ西日本空手道連盟を結成し、会長となる。以降、防具付空手界は東日本は錬武会、西日本は錬心舘を中心に発展していく事となる。 錬心舘は1968年(昭和43年)10月に国民体育大会への参加をめざして群馬県前橋市で開催された「第1回全国都道府県空手道選手権大会」において防具付きの部で優勝(鹿児島県チーム)、無防具の部で準優勝(同チーム)をして以降は全空連を脱退し、流派との交流を断絶している。 寸止め空手の財団法人全日本空手道連盟が結成された後、錬武会は全空連との申し合わせ事項により全国大会を6年間中止している(ただしアジア大会は実施)。これにより防具付き空手の発展は大きな弊害を受けるも、この間、鹿児島で錬心舘が「第1回少林寺流全国空手道選手権大会」を開催したことや、全日本清心会が全空連から脱退の上で防具付き空手を開始したことなど、防具付き空手の普及は継続していた。 昭和46年に錬武会は全国大会を再開するも、昭和50年代に入ると、錬武会内部において防具に鉄面のカラテクターを採用し、一撃必殺を標榜することへのアンチテーゼの動きが生まれ始めた。やがて昭和53年に久高正之が新防具のスーパーセーフを開発すると、この防具を採用した多撃必倒的な加点方式の日本硬式空手道協会が誕生。これに錬武舘東京都本部道場も参画。錬武会は同時期に防具改良組織委員会によりストロングマンを開発し防具に採用するが、結局防具付き空手界は「一撃必殺」の錬武会と「多撃必倒」の硬式空手に大きく分岐することとなった。
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