鉱夫らの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)
北大東島では前述のように会社の私製紙幣が流通していた。また会社側は貯蓄を奨励していたが、島内に郵便局や銀行は無かったため、結局会社に預ける形となった。また社員や現業員(傭人)クラスも身元保証金、任意積立金名目の預金を強いられた。日用品や食料品の多くは会社の購買所で購入したが、少ないながらも理髪店、飲食店、菓子屋、洋裁店そして豆腐屋などの個人商店もあり、社宅街には魚市場もあった。しかし商品購入先が少ないこともあってどうしても買いだめ傾向が強くなった。特に泡盛は一升瓶で買うことが常態化していて、飲酒量の増加の原因と見なされて問題となった。実際問題、多くの鉱夫たちにとって最大の娯楽は酒であった。 前述のように社員と鉱夫との間の格差は大きく、給与面でも大きな開きがあった。現業員(傭人)であっても家族が多い場合、生活は楽ではなかった。しかしそれでも当時の沖縄本島の田舎に比べれば金銭的に余裕があり、暮らしやすかった。また基本的失業の心配も無かった。また鉱夫の家族では豚や山羊を飼って生活の足しにしていた。会社所有の北大東島では会社は絶対の存在であったが、リン鉱山ではストライキやサポタージュが起きることもあった。1928年12月には現場監督の暴言がもとで約280名の鉱夫がストライキを起こし、賃上げと現場監督の解任を要求した。結局問題の現場監督は解雇となった。 島外との連絡手段である船便は、会社の傭船が大阪、門司、大東島、東京、大阪と巡航していて、月に一回程度来航して生活必需品の搬入と砂糖の搬出を行った。また毎年1月から5月頃にかけて、リン鉱石積取船が7回から8回程度来航する。そして労働者の往来や必要物資の搬入等のため、会社の傭船が沖縄本島との間を年に4回から5回往復した。その他、沖縄県の定期航路として大阪商船の船が年に一回、製糖が終わる5月から6月頃に来航した。郵便物や新聞雑誌が届くのは主に月一度の巡航船によるものであり、ラジオの所有も社員の一部に限られていて、どうしても本土や沖縄本島の動きから取り残されがちとなった。その結果、島内では口コミが大きな情報の伝達手段となった。 外部との連絡が少ない少ない北大東島において、娯楽施設への期待は高かった。大日本製糖時代の北大東島出張所では娯楽施設の充実を求める要望書を本社に送っている。前述のように社員と現業員(傭人)用にはビリヤード等が楽しめるクラブハウスがあり、運動場やテニスコートも整備されたまた島の北部の海沿いには通称「別荘」と呼ばれた小屋が建てられ、社員たちが週末利用していた。 鉱夫の参加は無かったが、俳句や謡曲を趣味とする社員による句会や謡曲会が開催されていた。俳句に関しては「阿旦(アダン)俳句会」が結成され、馬酔木、雲母など俳句専門誌への投句も行われ、しばしば採用、掲載されていた。 社員に比べて鉱夫たち対象の娯楽は少なかった。会社では時々テニスコートを会場として鉱夫や農家など一般島民も対象とした活動写真大会を開催した。また9月23日の大神宮祭は娯楽が少ない鉱夫やその家族たちにとって大きな楽しみであり、集落対抗競技が行われた小学校の運動会もまた大きな楽しみの一つであった。そして沖縄県郷友会の年一度の総会時には沖縄芝居等の余興が行われ、沖縄県出身者が大多数を占める鉱夫らにとって大きな楽しみであった。 医療に関しては会社側が比較的力を入れており、医師、看護師、産婆、そして薬剤師が勤務する入院設備がある病院があり、医療機器、薬品なども離島の病院としては整備されていた。島内では大正時代にチフスが大流行したことがあり、大腸カタル、アメーバ赤痢は風土病のようになっていた。水が乏しく質が悪いこともあって胃腸病が多く、眼病、そして疥癬患者も多かったが、衛生観念の浸透に伴って眼病や疥癬の罹患率は改善していった。
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