鉱害と塵肺問題について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)
細倉鉱山での鉱害発生については、いつ頃から発生していたのかはっきりしないが、鉱害についての関心が高まってきたのは大正時代以降のことであった。大正時代には精錬所の煙害によって栗の木が枯れたり放牧中の馬が草を食べて斃れたなどという被害が発生した。しかし細倉鉱山の存在は地域経済の中核であったこともあり、なかなか公害問題は公にはならなかった。 戦後になって、アイオン台風によって細倉鉱山の北隣にある大土森鉱山の鉱滓処理場のダムが決壊して周辺地域に鉱滓が流れ込み、田畑に大きな被害をもたらした事件以降、鉱害に対して地元住民らから抗議の声があがるようになった。1960年代後半になると、鉛、亜鉛の大鉱山である神岡鉱山でのイタイイタイ病問題がクローズアップされていく中、神岡鉱山に次ぐ規模の鉛、亜鉛の鉱山であった細倉鉱山でもイタイイタイ病の原因物質とされるカドミウム汚染についての関心が高まり、汚染状況についての調査が行われることになった。 1969年(昭和44年)に発表された調査結果によれば、水田や川泥から高濃度のカドミウムと亜鉛が検出されたが、イネの汚染状況は比較的軽度で、また地域住民の健康被害も確認されなかった。調査結果をふまえて農業用水の取水場を鉱害のない二迫川に設けることになり、細倉鉱山も鉱排水処理設備の改善と増強に取り組み、また精錬所からの排煙対策も強化した。そして鉱害に汚染された田畑に対しては細倉鉱山側が補償を行った。 1987年の細倉鉱山閉山後、鉱山で働いていた労働者たちの健康を蝕んでいた塵肺の問題が表面化した。粉塵が舞う坑内で労働を続けていた細倉鉱山の多くの労働者たちは塵肺に罹患していた。塵肺患者らは1992年(平成4年)、細倉鉱山株式会社の親会社である三菱マテリアル相手に仙台地方裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こし、1996年(平成8年)3月には原告全面勝訴の判決が下った。三菱マテリアル側は仙台高裁に控訴したが、1996年10月15日、高裁の和解勧告を受け入れ、三菱マテリアルは鉱山労働者の塵肺被害を防止できなかったことの社会的責任を認めた。
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