鉱害問題の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/21 13:42 UTC 版)
しかしそのころ犀川の魚類(鮎・ゴリ等)が年々減少する事態が発生し、倉谷鉱山の鉱毒が原因だと疑われ、これをめぐって犀川の漁民との間に争議が発生した。1893年(明治26年)、沿岸の漁民が県に対して保護策を要求する陳情を行なったのがその発端である。漁民達は代表者を選んで鉱山側との折衝を始めたが、杉山は防止設備への経費を惜しみ、代表者3人を買収。この結果3人は折衝から手をひいてしまった。これを知って怒った住民百数十人が3人の家におしかけようとしたが、事前に広坂署員に探知され、大騒動に至らなかった。しかも陳情そのものに対して、県は訴えをとりあげなかった。とりあげなかった理由として、鉱山の経営が杉山から倉谷鉱業株式会社の手に移り、精錬の方法も洋式に改良されたことを説明した。このまま鉱害問題は解決しないまま放置された。
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