都市計画案件
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「チャールズ・マルフォード・ロビンソン」の記事における「都市計画案件」の解説
意気揚々とした談話とともに著書が出版されてから1903年、デトロイト商業委員会がロビンソンの獲得に乗り出し、この要請から彼の計画の経歴が始まる。その後のニュースで大規模シビックスキームやシビックアートの権威として称賛されたことに鼓舞されて、彼は、巨大で巨額なプロジェクトを幾つか提案している。 主なオピニオン・リーダーたちは即時にこうした都市美の価値を十分理解し、ロビンソンを都市美の指導者のトップ層に引き込んだ。最初の著書の出版後一年半以内に、ロビンソンは全米公共空間改良連盟の書記長、全米公園・野外芸術協会の事務局長、セントルイス世界博の「モデル都市」展示の計画に責任を持つ協会間協議委員会の主要メンバーになっている。改良指導者が都市美信者のバイブルと称するものを著したとしてロビンソンを第一人者として迎えていくのである。 実現のため上院議員に一度限りの政治的支援と事務局長職を取りつけ、また熟練した目からこの原案をチェックするため、フレデリック・ロー・オルムステッド・ジュニアに支持を求める。オルムステッドは、このスキームが欠陥だらけであることに気づいて指摘を与えている。この結果に懲りて、ロビンソンはその後、少なくとも急成長する大都市ロサンゼルスの助言に同意した1909年までは、大規模で巨額なヨーロッパ風の構想を提案することを差し控えることになる。そのあいだ、ロビンソンは天性の専門領域として中小規模の都市を見出した。1905年、エルパソ優良道路協会は、舗装するには費用がかかり埃っぽいことで悪名高く夏の日差しが眩しいこの道路は、地元の実業家たちによる最新の装飾にもまったく不釣り合いな代物であった約140フィート幅の異様に広い道路を美化するために、有名なリゾート町であるコロラド・スプリングスに彼を招くことになる。ロビンソンは多くの解決策を持っていたが、中央緑地帯や路側緑地帯による道路表面の削減を強調、帯状の芝生による中央分離帯、あるいは拡幅した樹木帯で覆う案を示した。その後にロビンソンは、訪問した都市のほぼすべてで街路シビックピューテイ幅を調査し、しばしば「緑地帯」を公共空間の美への鍵として捉えた。彼はこの問題について十分な専門知識を蓄積し、第三の著書である『街路の幅員と配置』を1911年に刊行する。 ロビンソンが関わった都市計画(主には都市美計画)には、この後、短い予備的なものも含め、デンバー(地方政府から、1906年)、ダピューク、IA(実業団体と労働・市民団体から、1907年)、デトロイト(実業団体から、1905年)、ホノルル(地方政府から、1906年)、オブデンズバーグ(ニューヨーク地方政府から、1907年)、シラキュース(地方政府から、1905年)、オークランド(地方政府、1906年)、ロサンゼルス(地方政府レベル、1909年)、ニューヨーク・ウォータータウン(市民団体から、1907年)とジェームズタウン(地方政府から、1908年)サンノゼ(市民団体から、1909年)、コロンバス(協同、地方政府から、1908年)、サクラメント(実業団体から、1908年)、サンタバーバラ(地方政府から、1909年)と、かなりの数に上る。 コロラド・スプリングスからロサンゼルスに至る1905年から1909年までのあいだでは、ロビンソンは、建築よりもむしろ美化の伝統から公園づくりや村落改良を彼のテーマに多く据えた。彼は明らかに古くから存在し自然主義的でとりわけ都市美が達成可能な段階にある市町を好んでいる。一貫してアーバニズムの規範をより高く擁護し、しばしば地域には高額なプログラムを強く主張したが、彼は「数少ない大きな提案に数多い小さなものを混合することで人々に身近なものになる。クライアントを圧倒してはならない。彼らを奮い立たせよ」をモットーとした。1910年には、ミズーリ州セント・ジョセフの都市設計と計画見直しのため、委託を受ける。完全に彼のレポートの半分は市内の公園スペースの必要性に言及し、国家歴史登録財になっている聖ジョセフ・パークとパークウェイシステムでつながるよう公園設計を施している。 1912年に、デイジー・デンソンと、彼女の属するノースカロライナ州ラリーの婦人クラブは、ラリーの都市美化運動の主任スポークスマンをロビンソンに委託し、都市計画作成まで発展させた。 ロビンソンは、美化運動の公証人として彼独自の公共ビネット計画と称する都市美計画を巧みにいい換えた様式をつくりだし、環境変容を巡る制約に直観的に対応したという。彼がこのアプローチを追求した理由の一つには、彼が絵をうまく描くことができなかったためとされ、クライアントにとってロビンソンの計画案は視覚からではなく文章に訴えうるものであった。丁寧にして意気昂揚するエッセーとして綴られた計画案が主で、つねにハンフリー・レプトン由来の原則を用いる。これはイギリス風アメリカの景観デザインを有するオルムステッド派の伝統でありさらに場所の個性を高める方法を目指したものであり、景色の良い河岸から公園のような住宅地街路やごく小さな装飾用の街路の縁まで、どんな都市景観でも美化の好機として描いてみせている。 ロビンソンは、都市を、大小間わず実現されることを待つ多くの可能性を持つ劇的場面とみなしていた。彼は、都市を公然と構造化することで郷土の誇りや繁栄への希望を、素晴らしく目立って質感のある様々なビネットに翻案し、公共空間の理想主義を喚起するとともに、旅行者を誘うように意図することで、都市に統一感を与えようとしていた。
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