近世以降・新市街の建設
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1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方であるエジプト州の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。 1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行い、7月21日にピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。ナポレオンはイズベキーヤ湖近くに司令部を置いたが、しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍も1801年8月には降伏する。 彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱に乗じて台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝の下で再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。特に19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、フランスの首都パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した。イズベキーヤ湖は埋め立てられて公園となり、それ以西のエリアが開発された。イスマーイール・パシャは新市街にあったアブディーン宮殿を改造して居城とし、シタデルに代わって以後はアブディーン宮殿がエジプトの統治者の居城となった。また、1856年にはアレキサンドリアとカイロを結ぶ鉄道が開通し、ミスル駅(現ラムセス駅)が開業した。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。その後もカイロの開発は続けられ、1894年には東部郊外の砂漠にニュータウンとしてヘリオポリスが建設され、以後続々とカイロ郊外に建設されるニュータウンの嚆矢となった。20世紀に入るとゲジーラ島が高級住宅街化し、カイロ駅北のショブラ地区が労働者の居住地区となった。 1922年にエジプトは独立を果たし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っていた。これに不満を持った市民は1952年1月26日に「黒い土曜日」と呼ばれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファールーク国王を追放した。エジプト革命である。 革命政府はカイロの近代化を進め、東部郊外のナスルシティなどに高級住宅街の開発が進められた。カイロの人口は急速に増大し、カイロ都市圏の人口は1907年に95万人だったものが、1936年には160万人、1952年には290万人、1988年には1200万人に達した。しかし急激な開発はカイロへの富の集中と市内での貧富の差を生み出した。首都における不満は市民の抗議活動を招き、時には政権に影響を与えた。1977年1月には食料品などの値上げに伴う不満から大規模なデモが発生。同月19日にはエジプト内務省が外出禁止令を発出、デモ隊に向けて発砲を繰り返して多数の死者を出し、サダト政権を揺るがせた。また、2011年、ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結して、抗議デモを行い、これによりムバーラク政権は崩壊した(エジプト革命 (2011年))。 また、2012年頃からは電力不足により停電が常態化しており、2014年には都市部においても1時間の停電が1日に3、4回起きることもある。同年9月には1日近くに亘る停電も発生し都市機能は麻痺した。これに対してアブドルファッターフ・アッ=シーシー大統領は、120億ドルの資金が電力解消に必要であり、エジプトは現在それだけの経済的余裕を有していないと述べており、改善の見通しは全く立っていない。 こうした人口増加により、カイロでは交通渋滞や大気汚染も深刻になっている。その解決策と雇用拡大を兼ねて、シーシー政権は2015年、カイロ中心部から東方約35キロメートル~約50キロメートルにかけて、カイロ国際空港よりさらに東に新首都の建設を開始した。エジプト国防省系企業「新首都都市開発」の所有地(714平方キロメートル)を開発して、650万人の居住を想定している。総事業費は約450億ドルを見込んでおり、2019年から2020年にかけて、大統領府や官庁などを移転する計画である(エジプト首都移転構想(英語版))。
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