近世初期の豪商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 01:58 UTC 版)
「糸割符制度」も参照 16世紀末葉から17世紀初期にかけて、初期豪商と呼ばれる特権的商人が現れた。織豊政権から徳川氏による江戸幕府の成立へと日本の国内統一が進み、未曾有の海外発展を遂げたこの時代、商人は権力と結んでその政策の遂行に大きく貢献した。また、中央の権力者や新興の諸大名とともに桃山文化・寛永文化をささえ、その担い手となったのが初期の豪商であった。 堺の小西隆佐や今井宗久、津田宗及、博多の島井宗室および神谷宗湛は豊臣秀吉に協力した。小西隆佐は秀吉に財貨運用の才を認められて九州攻めや文禄の役で活躍し、ジョウチンの名で洗礼を受けたキリシタンであった。織田信長と豊臣秀吉に仕えた今井宗久と津田(天王寺屋)宗及は茶人としても知られ、千利休(宗易)とともに秀吉の茶頭となり、天下三宗匠と称された。島井宗室と神谷宗湛の2人は秀吉の九州制圧ののちに秀吉に拝謁し、秀吉から博多復興の命を受けた。ともに南方貿易や朝鮮出兵の輸送などで活躍している。また、堺の納屋助左衛門はルソン島(現フィリピン)での交易によって巨利を得たが、秀吉から邸宅没収の処分を受けることになった。 徳川家康の時代になると、京都の角倉了以や茶屋四郎次郎、摂津国の末吉孫左衛門・平野藤次郎、博多の大賀宗九、長崎の末次平蔵・荒木宗太郎、堺の今井宗薫らが貿易許可をえて南海貿易(朱印船貿易)に乗り出した。彼らは一般に、朱印状や糸割符制度などといった幕府より認められた特権を活用して富をたくわえ、また、全国的に商品流通が未発達で市場が不安定であることに乗じて巨利をえた。そのため、17世紀中葉に鎖国政策が進められ、金・銀の産出が減少し、その一方で交通路の整備などによって国内市場が安定化するにともない急速に没落していった。その衰退が決定的になったのは承応年間から寛文年間にかけて(1652年-1673年)のことである。なお、福岡藩の御用商人として博多と長崎で活躍した伊藤小左衛門が密貿易の罪で罰せられたのは寛文7年(1667年)のことであった。
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