近世初頭の信玄堤
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天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による武田領侵攻により武田氏は滅亡し、同年6月の本能寺の変により発生した「天正壬午の乱」を経て、甲斐は徳川家康が領する。徳川家康は豊臣政権に服従すると関東へ移封され、甲斐には豊臣秀勝・加藤光泰を経て文禄2年(1593年)には浅野長政・幸長が入った。 浅野氏時代の竜王信玄堤に関する文書として、文禄5年(1596年)の「浅野吉明書状」がある。同文書によれば、浅野氏家臣である浅野吉明は甲府・府中八幡神社に対し、国中地域の神職に対して府中八幡神社の普請に参加しないものは、「竜王之堤」(竜王信玄堤)の普請に従事することを命じている。府中八幡神社は甲斐・国中地方の惣社であり、竜王信玄堤の普請は惣社の普請に匹敵する重要性を有していたと考えられている。 近世にも竜王堤の普請は続けられており、江戸時代にかけて中巨摩郡昭和町や中央市方面へ部分的に延長された。1994年(平成6年)に行われた昭和町河西の発掘調査に拠れば、堤防は河原の砂礫層に杭列が施されたもので、内側へ突出した「石積出し」の痕跡も見られる。新旧の差が見られ、修復が繰り返されていたと考えられている。
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