近世初頭の慈照寺とは? わかりやすく解説

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近世初頭の慈照寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)

慈照寺 (甲斐市)」の記事における「近世初頭の慈照寺」の解説

天正10年1582年3月織田信長徳川家康連合軍による武田侵攻で、武田氏滅亡する同年4月信長禁制慈照寺文書)では、織田氏によって特権保障されている。同年6月2日には本能寺の変により信長横死し、甲斐国は「天正壬午の乱」を経て徳川家康領する慈照寺文書には天正11年1583年4月徳川家康寺領安堵状写が伝存しており、寺領縮小したものの徳川氏による庇護得ている。また、天正13年1585年)・天正16年1588年)の徳川家奉行人棟役免許手形残されており、この段階では徳川氏武田氏施政方針継承し門前百姓棟別役免除が行われていたことが確認されるその後天正17年1589年)に徳川氏奉行伊奈忠次(熊)に命じて甲斐国内の寺社領縮小断行し伊奈忠次判物慈照寺文書)では嶋下方志田甲斐市志田)などの寺領除かれ堀之内分のみが寺領として安堵され、以来これが固定された。天正18年1590年)には徳川家康関東移封され、甲斐羽柴秀勝加藤光泰浅野長政幸長豊臣大名配置される豊臣大名時代には甲斐国内の検地が行われ、慈照寺文書では文禄3年浅野忠吉(「忠吉」は長政の初名、右近大輔寺領安堵状残されており、寺領若干増加している。

※この「近世初頭の慈照寺」の解説は、「慈照寺 (甲斐市)」の解説の一部です。
「近世初頭の慈照寺」を含む「慈照寺 (甲斐市)」の記事については、「慈照寺 (甲斐市)」の概要を参照ください。

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