近世初期までの発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 08:16 UTC 版)
「バート・ドリーブルク」の記事における「近世初期までの発展」の解説
青銅器時代の墳丘墓群が古い入植を示している。墓から出土した針状の装飾品は遊歩道のシンボルになっている。 歴史上最も重要な集落は海抜 380 m、谷から 170 m 上のエッゲ山地の尾根に位置するイーブルクである。考古学上は、西側の土塁の中核部にザクセン時代およびフランク時代の防衛施設である 2枚の石灰岩の壁があったことを証明した。フランク王国年代記は、753年にケルン大司教ヒルデガー・フォン・ザクセンが亡くなった場所として イーブルクを記している。772年にカール大帝によって征服されたことにより、この地にあったザクセン人にとってのイルミンズール(ドイツ語版、英語版)の聖域が破壊されたことは、よく知られた伝説である。1400年頃の史料によれば、カール大帝は799年に城をパーダーボルン司教に寄進し、その敷地内にペトルス教会を建設した。この教会は1231年から1256年まで助祭長座教会となり、新たに大きな建物に建て替えられたが、その基礎壁が現存している。10世紀に城山は、後にノイエンヘールゼと呼ばれる村にあった隠棲した貴族子女のヘールゼ女子修道院(868年 – 1803年)の所有となっていた。1135年頃、ベネディクト女子修道会は修道院を創設した。この修道院は1142年にゲールデ(現在のブラーケ市内)に移転した。パーダーボルン司教ベルンハルト2世は、1189年に騎士の城を建造した。この城は1223年に拡張されたが、1444年にゼスターのフェーデにより焼失し、廃墟となった。最後の騎士となったヨハン・フォン・ドリーブルクおよびハインリヒ・フォン・ドリーブルクの死後、市が城とエッゲ山地の森を相続した。聖堂参事会員ハインリヒ(1463年没)のレリーフが教区教会の聖ペテロおよびパウロ教会にある。 イーブルク (Iburg) は、ドリーブルク村 (Driburg) の名前の由来となった(最初の記録は1253年、14世紀の印章に「Sigillum Civitatis Iburg」すなわち「Iburg市の印」とある)。1290年の文書に判事と市参事会員の記述があることから、これ以前に都市権が与えられていたことは明らかである。1345年にパーダーボルン司教バルドゥインが全ての都市権を確認し、これにより古い権利文書は廃棄された。この小さな楕円形の都市は教区教会の周囲に広がっていた。この教会は、元々13世紀に建てられたロマネスク様式の側廊を有する三廊式教会であった。1676年に改修され、1823年に拡張されたこの教会は1894年に老朽化のために取り壊され、現在の大きなネオゴシック様式の教会に建て替えられた。ミューレンプフォルテ沿いの市壁の一部が近年復元された。広域幹線道路は、市内ではランゲ通りとして街の長軸を形成している。
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