近世倭館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:01 UTC 版)
1592年に始まる文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶し、戦争直後対馬藩が送った貿易再開を求める使者が帰ってこないことが多かった。しかし朝鮮人捕虜を送還するなど対馬藩の必死の努力によって、1607年最初の朝鮮通信使が来日し、国交回復が決まった。対馬藩は江戸幕府から朝鮮外交担当を命じられ、釜山に新設された倭館における朝鮮交易の独占権も付与された。1609年に締結された己酉約条によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた。 また、倭館は日本人・朝鮮人を問わず女性の立ち入りを禁止していた。また、倭館内で日本人男性と朝鮮人女性が性的関係を持った場合には、朝鮮側では朝鮮の法律の原典と言える大明律に則って「交奸」(密通)の罪が適用されて女性は原則死刑、朝鮮人男性が仲介などにあたった際にはこれも死刑としていた(なお、この場合、当事者が未婚か既婚かは問わない)。朝鮮側は対馬藩に対して同律処罰を求めたが、対馬藩側は当時の日本の法令では密通を死刑に処した例は無いとしてこれを拒絶、これに反発した朝鮮側は江戸幕府に直接この問題を提起することを仄めかした。だが、これが外交問題化することを恐れた対馬藩は1711年に辛卯約条を結び、対馬藩は倭館の外で強奸(強姦)を行った日本人男性を死刑にすることを認めた代わりに、それ以外の交奸(和奸もしくは強奸未遂)を行った日本人男性に関しては永久的な配流を行うことを確約して死刑適用は回避することで事態を収拾させた。
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