近世以降の小菅
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「小菅神社 (飯山市)」の記事における「近世以降の小菅」の解説
その後、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、川中島四郡は織田氏の家臣・森長可が支配する。同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生すると、小菅は越後国の上杉景勝領となり、情勢が安定を見るとともに奥社本殿が再建された。 再建にあたっては、小菅山の経営にあたっていた別当寺院大聖院のほか、18坊が願主となり、天正19年(1591年)に完成している。完成の2年後、文禄2年(1593年)には、越後の人、金丸与八郎が鉄製鰐口を奉納している。この様に、度重なる混乱に巻き込まれながらも、越後からの鰐口奉納があったことに見られるように、小菅の宗教的権威は依然として衰えなかった。 慶長3年(1598年)2月、上杉氏の会津移封にともなって大聖院が移転した。このことにより、小菅山の再建が頓挫したとされるが、それは必ずしも正しくない。慶長11年(1606年)には、皆川氏より絵馬2面が寄進されており、大聖院の移転と小菅山の聖地としての性格は別個のものであった。また、新たな別当に神袋坊を迎えて大聖院自体も存続しているのである。 表3 大聖院および小菅村の石高年代大聖院小菅村備考慶長年間 549石余 慶長打立帳による。関沢村を含む。 慶長11年(1606年) 78石 村高の内数。旧領の安堵と寄進を合した数値。 正保年間・元禄年間 267石余 正保書上および元禄郷帳による。 慶安5年(1652年) 56石余、百姓22戸 正徳5年(1715年) 85石余 享保7年(1722年) 98石余 延享7年(1748年) 86石余 天保年間 435石余 天保郷帳による。 大聖院の移転が小菅の退勢をもたらさなかったことを裏付けるものとして、大聖院と小菅村の石高記録がある(表3)。文禄4年(1594年)に実施された上杉領内検地の記録『文禄三年上納員数録』によれば、大聖院の知行高は58石とされ、小菅の集落全体を下回る。以後、近世の記録を見ても、小菅の石高と大聖院の知行高には開きがあることが分かる。しばしば大聖院と小菅は同一視され、大聖院が小菅に及ぼした影響力ないし支配力は非常に大きなものと見なされる。しかし、上記のような石高記録が示すところによれば、実際には大聖院は小菅の一部であったのである。 大聖院が小菅の一部であったという論点はさらに、小菅神社の主要な神事である柱松柴灯神事の形態によっても補強されるだろう。 柱松柴灯神事は修験道の祭事とされ、元隆寺が大きな役割を担ったとされてきた。しかし、略縁起やそれに由来する通説的理解の説くところによれば、元隆寺は戦国期の荒廃以後、再建されることもなく荒廃するにまかされて、近世にさしかかる17世紀初めには、すでに廃墟と化していたのではなかったのだろうか。戦国期に元隆寺が衰退したままであったのならば、なぜ柱松柴灯神事のような大きな祭事を執行・維持できたのかが説明できない。また、寺院が主導したというならば、明治期の廃仏毀釈にもかかわらず、祭が廃絶しなかったのかを説明できない。さらに、諸史料に見られる柱松柴灯神事の記述を追ってみると、「修験神輿前において柱松柴灯護摩を修す」(来由記)、(奥院にて)「馬頭の護摩を修す」「天下太平のために奥院におゐて長日の護摩を始終す」(略縁起)などとあり、修験寺院の祭事としての性格が明瞭である。それにもかかわらず、今日の柱松柴灯神事には護摩にかかわる儀礼は存在しておらず、寺院による関与も見られないのである。今日の神事に用いられる山伏面・山姥面が江戸時代初期に製作されていることや、奥社参道の杉並木や小菅に残されている宗教建築の多くが江戸時代に整備されたものであることが判明しており、その様に積極的な霊場経営が行われていたという事実は、通説的理解と整合しない。以上のように、通説的理解はいくつもの矛盾を含んでいるのである。 そうした通説的理解とは異なる小菅の近世の姿を描き出している点で、注目すべき民俗史料がある。天明3年(1783年)に取り決められた「御祭禮日市中村定連判帳」である。この文書は、祭礼日の治安維持や、参詣者を目当てにした市の管理、市に出店する店からの金銭徴収などが定められており、要約するならば里人による祭礼運営の規約である。この文書が示すところからすると、祭礼に出店する商人たちからの金銭徴収は村の収入となっていた。そのため、市を栄させるために必要な配慮がなされており、そのあらわれがこの文書である。このことが示すところは、祭礼が小菅の村の世俗的運営に委ねられていたということに他ならない。 以上からすると、中世から近世への移行期にあって、霊場としての小菅の統治は、領主の庇護下にある寺院の手から里人の手に移り、それとともに祭礼の性格も宗教的なものから、観客(参詣者)に見せることに重きを置いた愉楽的・観光的な性格に移行して行ったと考えられる。そして、そのために、明治の廃仏毀釈を経ても柱松神事は途絶えることがなかったのである。 小菅山の歴史についての通説的理解は、元隆寺やその別当寺院たる大聖院の役割を非常に大きなものとして描いてきた。しかしながら、そうした通説的理解が正しくないことが、以上から浮かび上がってくる。戦国期の兵乱を経てもなお、元隆寺の勢威は衰えたわけではなかった。しかしながら、近世以降の小菅山においては、里人の世俗的な霊場経営が優越し、元隆寺が霊場経営に果たした役割は逆に縮小して行ったのである。
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