近世以降の小菅とは? わかりやすく解説

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近世以降の小菅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:30 UTC 版)

小菅神社 (飯山市)」の記事における「近世以降の小菅」の解説

その後天正10年1582年3月織田徳川連合軍武田侵攻により武田氏滅亡し川中島郡は織田氏家臣森長可支配する同年6月本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生すると、小菅越後国の上景勝領となり、情勢安定を見るとともに奥社本殿再建された。 再建にあたっては、小菅山経営にあたっていた別当寺院大聖院のほか、18坊が願主となり、天正19年1591年)に完成している。完成2年後文禄2年1593年)には、越後の人、金丸八郎鉄製鰐口奉納している。この様に、度重なる混乱巻き込まれながらも、越後からの鰐口奉納があったことに見られるように、小菅宗教的権威依然として衰えなかった。 慶長3年1598年2月上杉氏会津移封ともなって大聖院移転した。このことにより、小菅山再建頓挫したとされるが、それは必ずしも正しくない慶長11年1606年)には、皆川氏より絵馬2面寄進されており、大聖院移転小菅山聖地として性格別個のものであったまた、新たな別当に神袋坊を迎えて大聖院自体存続しているのである表3 大聖院および小菅村石高年代大聖院小菅村備考慶長年間 549余 慶長打立帳による。関沢を含む。 慶長11年1606年78石 村高の内数旧領安堵寄進合した数値正保年間元禄年間 267石余 正保書上および元禄郷帳よる。 慶安5年1652年56石余、百姓22正徳5年1715年85石余 享保7年1722年98石余 延享7年1748年86余 天年間 435余 天郷帳よる。 大聖院移転小菅退勢をもたらさなかったことを裏付けるものとして、大聖院小菅村石高記録がある(表3)。文禄4年1594年)に実施され上杉領内検地記録文禄三年上納員数録』によれば大聖院知行高58石とされ、小菅集落全体下回る以後近世記録見ても、小菅石高大聖院知行高には開きがあることが分かる。しばしば大聖院小菅同一視され大聖院小菅及ぼした影響力ないし支配力は非常に大きなものと見なされる。しかし、上記のような石高記録が示すところによれば、実際に大聖院小菅一部であったのである大聖院小菅一部であったという論点はさらに、小菅神社主要な神事である柱松柴灯神事形態によっても補強されるだろう。 柱松柴灯神事修験道祭事とされ、元隆寺大きな役割担ったとされてきた。しかし、略縁起やそれに由来する通説理解説くところによれば、元隆寺戦国期荒廃以後再建されるともなく荒廃するまかされて、近世さしかかる17世紀初めには、すでに廃墟化していたのではなかったのだろうか戦国期元隆寺衰退したままであったのならば、なぜ柱松柴灯神事のような大きな祭事執行維持できたのかが説明できないまた、寺院主導したというならば明治期廃仏毀釈にもかかわらず、祭が廃絶しなかったのかを説明できない。さらに、諸史料見られる柱松柴灯神事記述追ってみると、「修験神輿前において柱松柴灯護摩修す」(来由記)、(奥院にて)「馬頭護摩修す」「天下太平のために奥院におゐて長日護摩始終す」(略縁起)などとあり、修験寺院祭事としての性格明瞭である。それにもかかわらず今日柱松柴灯神事には護摩にかかわる儀礼存在しておらず、寺院による関与見られないのである今日神事用いられる山伏面・山姥面が江戸時代初期製作されていることや、奥社参道杉並木や小菅残されている宗教建築多く江戸時代整備されたものであることが判明しており、その様積極的な霊場経営が行われていたという事実は、通説理解整合しない。以上のように、通説理解はいくつもの矛盾含んでいるのであるそうした通説理解とは異な小菅近世の姿を描き出している点で、注目すべき民俗史料がある。天明3年1783年)に取り決められた「御祭禮日市中村定連判帳」である。この文書は、祭礼日治安維持や、参詣者を目当てにした市の管理、市に出店する店からの金銭徴収などが定められており、要約するならば里人による祭礼運営規約である。この文書が示すところからすると、祭礼出店する商人たちからの金銭徴収収入となっていた。そのため、市を栄させるために必要な配慮なされており、そのあらわれがこの文書である。このことが示すところは、祭礼小菅世俗的運営委ねられていたということ他ならない。 以上からすると中世から近世への移行期にあって霊場としての小菅統治は、領主庇護下にある寺院の手から里人の手移り、それとともに祭礼性格宗教的なものから、観客参詣者)に見せることに重きを置いた愉楽的・観光的な性格移行して行った考えられる。そして、そのために、明治廃仏毀釈経て柱松神事途絶えることがなかったのである小菅山歴史について通説理解は、元隆寺やその別当寺院たる大聖院役割を非常に大きなものとして描いてきた。しかしながらそうした通説理解正しくないことが、以上から浮かび上がってくる。戦国期兵乱経てもなお、元隆寺勢威衰えたわけではなかった。しかしながら、近世以降の小菅山においては里人世俗的な霊場経営優越し元隆寺霊場経営果たした役割逆に縮小して行ったのである

※この「近世以降の小菅」の解説は、「小菅神社 (飯山市)」の解説の一部です。
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