車図とは? わかりやすく解説

車図

主名称: 車図
指定番号 192
枝番 00
指定年月日 2004.06.08(平成16.06.08)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 古文書
ト書
員数 1巻
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文:  この車図は洞院とういん】家における太政大臣所用の車図二種と摂関家所用檳榔庇車びんろうひさしぐるま】の関係記録からなる一巻である。
 牛車ぎっしゃ】は平安時代以来貴族常用として不可欠のものであったため、『西園寺家車図』や『九条家車図』等の詳細な記録図が伝存している。これらによれば、車図は牛車故実に関する説明書きと、網代【あじろ】車などの図からなる。たとえば、網代車車箱などの薄板網代組んだ車で、袖や立板などに漆で文様を描くが、袖の白網代定紋付けたものは大臣などの乗用であり、近衛牡丹九条亀甲文様であるとされる
 本巻体裁一五からなる巻子装で、内容二つ構成からなる前半部は洞院家太政大臣車図ともいうべきもので、第一紙から第六紙までが網代車眉【あままゆ】車の説明と図、後半檳榔庇車に関する記録抜き書きしたのである詳細は、第一・二紙が網代車一つ書き第三紙が網代車俯瞰図第四紙が雨眉車俯瞰図第五紙が同車左方図、第六紙が同車方図大和絵描いている。とりわけ車内立板描かれ四季唐絵大和絵資料としても貴重で、その配列も『抄』等にみえる左前春、同後冬、右前夏、同後秋の記述一致し本車図が大臣大将所用車であることを示している。図の部分料紙には薄い裏打紙が施されているところから料紙薄手楮紙打紙で、敷き写し可能性が高い。
 後半部は、摂関家所用檳榔庇車関係記録抄出したもので、第七紙から第九紙までが建長四年(一二五二近衛兼経太閤時の拝賀檳榔庇車説明第一〇紙から第一二紙までが天承元年一一三一)『中右記』『知信記』、同二年『知信記』と保延五年(一一三九)『信範記』の藤原忠実の例、第一三紙が保延五年『宇槐記』の忠実の例、第一四紙が嘉禎三年一二三七)の近衛家実の例、最後第一五紙が前の建長四年兼経の例等、檳榔庇車に関する記録類からなる。なお、第一三紙右端第十二紙左端継目の下)には字形切断されているために判読できないが、三文字くらいの墨書がみえ、『宇槐記』の前になんらかの記事があったことが判明する後半部は、第七紙から第九紙と第一五紙が建長四年近衛兼経檳榔庇車乗用に関する記述で、料紙檀紙用いている。なお、第一〇紙から第一四紙の料紙には杉原紙用いられている。
 本巻網代車の袖および立板部分には扇面散【せんめんちら】しの文様描かれている。扇の文様洞院実雄一二一九七三)の嫡流使用する網代車描かれる故実から洞院家所用のものであることがわかる。また、檳榔庇車太政大臣乗る車であったことを併せ考えると、本巻洞院家人物の太政大臣時に必要あって書写されたものであることが判明する洞院家唯一太政大臣になったのは、公守【きんもり】(一二四九~一三一七)で正安元年一二九九六月である。さらに、料紙書風画風からみて、書写時代鎌倉時代後期であることを勘案すると、本巻編纂した人物は、洞院実泰【さねやす】書状尊経閣文庫車輿等書』所収)の筆跡等との比較から、公守の子息の実泰(一二七〇~一三二七)と想定される。父の就任に伴い檳榔庇車必要になり、自家所用網代車雨眉車の後に貼り継ぐ洞院家檳榔庇車の図の代わりに近衛家所用檳榔庇車記録を貼り継いだ思われるまた、公守は十月に官を辞していることを考えると、本巻正安元年ころの成立であろう
 洞院家室町時代中期至って、公数【きんかず】が子のいないまま出家したため、断絶した。公数は出家の際に家伝記録文書等を売却したことが知られている。陽明文庫には、洞院実熙【さねひろ】筆『政部類記』などの洞院家伝来書を収蔵するので、本巻もこのときに近衛家所有帰した思われる
 本巻牛車図の故実として成立していく様子がわかる重要な文書であり、車図の最古遺品として貴重である。



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