訴訟の量と収入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 03:22 UTC 版)
「エイブラハム・リンカーンの前半生」の記事における「訴訟の量と収入」の解説
巡回裁判に参加した他の多くの弁護士とは異なり、リンカーンには不動産投機や事業が生む利益、あるいは農園から補助収入を生む手段がなく、概してその稼ぎは法律実務のみで得ていた。1840年代に年収1,500ドルから2,500ドルとなり、1850年代初期には3,000ドル、1850年代半ばには5,000ドルにまで増やした。 リンカーンとハーンドンの事務所が引き受ける訴訟では、刑事事件の比率が当初は低く、1850年にはサンガモン郡巡回裁判所の訴訟の18%に関わり、その比率は1853年に33%にまで増えた。1期務めたアメリカ合衆国下院議員から戻ってきたとき、リンカーンはシカゴの法律事務所の共同経営の申し入れを断った。厳密に取り扱う訴訟の量で見ると、リンカーンは「疑いも無くイリノイ州中部で傑出した弁護士の一人」だった。連邦裁判でも声が掛かり、シカゴの連邦裁判所北部地区裁判所で重要な訴訟の依頼が来るようになった。 リンカーンはその法律家としての経歴の中で奴隷制に関わる訴訟を少なくとも2件、扱った。1841年、イリノイ州最高裁判所の「ベイリー対クロムウェル事件」では、奴隷であると主張された女性について、イリノイ州では「法律上の推定は(中略)あらゆる人が肌の色に関係なく自由である」と主張、その女性が売られることを防いだ。1847年、ロバート・マットソンという者が奴隷をイリノイ州に連れてきて逃亡され、取り戻そうとした。「通行の権利」はイリノイ州でも尊重されるべきと主張して弁護したが、結果は敗訴だった。ドナルドは、「マットソンの訴訟もクロムウェルの訴訟もリンカーンの奴隷制に関する見解を示したと見るべきではない。彼の職業は法律であり、道徳ではない」と述べている。通行の権利とは、奴隷所有者が自由州に行ったとして、その自由州でその意図を恒久的に設定しない限りその所有権を維持できるとして、複数の自由州で認められていた法理論である。 1850年代のイリノイ州では鉄道が重要な経済推進力になった。鉄路の延伸につれて、「設立認可と営業認可、通行権、評価と課税、一般運送業者の義務と乗客の権利、企業の合併や合同、管財人管理」など数多い法律問題が生じた。リンカーンや他の弁護士は間もなく鉄道の訴訟が大きな収入源になると気づいた。奴隷に関する訴訟と同様、リンカーンは時として鉄道会社の弁護を行い、また時にはその訴訟相手の側に立ち、その顧客を選ぶとき、法的あるいは政治的な課題に影響されなかった。共同事業者のハーンドンはリンカーンを評して「純粋にまた完全に訴訟弁護士だ」と語った。 1851年にアルトン・アンド・サンガモン鉄道に代わって、その株主ジェームズ・A・バレットを訴えた。バレットは同鉄道が計画した路線を変更したという理由で、株を購入するときに誓約した企業に対する差引勘定の支払いを拒絶した。リンカーンは、法律問題として公益の為であれば企業は契約書に拘束されないと主張した。新しく提案された同鉄道の路線は以前の路線に比べ利便性に勝り、変更の経費もそれほどかからなかった。従って同鉄道には逆に支払いの遅延でバレットを訴える権利があると主張した。リンカーンは勝訴し、イリノイ州最高裁判所によるこの判例はアメリカ国内の他の法廷で引用されることとなった。 リンカーンが扱った最も重要な民事事件は、「ハード対ロックアイランド橋梁会社事件」、通称「エッフィー・アフトン」訴訟と言われる記念碑的な事案である。リンカーンが強く支持してきたアメリカの西方拡張は、特にミシシッピ川を使った交易業者にとっては経済的脅威と受け止められた。1856年、1隻の蒸気船がミシシッピ川に架かる鉄道橋第1号の橋脚に衝突した。ロックアイランド鉄道がイリノイ州ロックアイランドとアイオワ州ダベンポートの間に渡した橋であった。この蒸気船主は橋が航行の邪魔になると主張して、損害補償を訴え出た。リンカーンは法廷で鉄道会社の弁護を行って勝訴し、水路に架ける橋の陸路の権利を確保することで、西方拡張の障害となる訴訟経費の問題を取り去った。 刑事事件のうちリンカーンが扱った最も著名な事案はウィリアム・「ダフ」・アームストロングの弁護で、被告は1858年にジェイムズ・プレストン・メッツカー殺人の容疑で起訴され、。当人はリンカーンの友人ジャック・アームストロングの息子だった。この事件では目撃証言の信用性に異議申し立てするために、当時としてはまだ珍しかった司法判断によって成立した事案を援用した。そして証人が嘘の証言をしたと示し、有名になった。目撃者が深夜に犯罪を目撃したという証言に反論した後、農民暦を取り出して月が低い角度にあったと示し、視認性が非常に落ちていたはずだと語った。ほとんど全てがこの証拠に基づき、アームストロングは無罪となった。 リンカーンはその23年間にわたる法律実務の経歴で、イリノイ州だけでも5,100件の訴訟に関与した。これらの多くは令状請求の手続きのみだったが、他の訴訟には時間を掛け真摯に取り組んだ。リンカーンとその共同事業者はイリノイ州最高裁判所に400回以上も出廷した。
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