リンカーンとハーンドン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 03:22 UTC 版)
「エイブラハム・リンカーンの前半生」の記事における「リンカーンとハーンドン」の解説
1844年にローガンが息子との共同事業を始めると決断したときにリンカーンとローガンの共同事業は解消された。リンカーンはおそらくより確立された弁護士を選んでいたはずだったので、若い共同事業者でいることに飽き、ローガンとリンカーンの事務所で法律を勉強していたウィリアム・ハーンドンを相手に選んだ。ハーンドンはリンカーンと同様活動的なホイッグ党員だったが、当時のイリノイ州ホイッグ等は2つの会派に分裂していた。リンカーンは、妻のメアリー・トッドとの結びつきを通じて既に年長の方である「シルク・ストッキング」派に所属しており、ハーンドンは年少でより大衆主義的な会派の指導者の一人だった。リンカーンとハーンドンの活発な共同事業はリンカーンの選挙期間を通じて継続し、リンカーンの死まで共同経営者だった。 リンカーンはハーンドンとの共同事業を始める前には、隣接する地域社会の法廷に立つことはあまりなかった。1854年まで法廷の最も活動的な常連の一人になるに連れてこれが変化し、アメリカ合衆国下院議員になって2年間中断されただけだった。第8巡回裁判所は11,000平方マイル (28,000 km2) の範囲をカバーしていた。毎年春と秋に、1回あたり9ないし10週間、リンカーンはこの地域を回った。10週間の巡回で150ドルほどの所得になった。巡回中の弁護士や判事は安いホテルで生活し、2人の弁護士が1つのベッドを分け合い、6人から8人の者が同じ部屋になった。 この巡回裁判で、リンカーンの誠実さと公平さという評判が、顧客や援助を求める地方弁護士の双方からの高い需要に繋がっていった。リンカーンが終生続くニックネームであるオネスト・エイブ (正直者エイブ)を貰ったのもこの巡回裁判のときだった。彼の受けた顧客、同時期に巡回裁判を回った者達、および彼が行った町の弁護士達は、リンカーンの最も忠実な支持者になった。この支持者の1人がデイビッド・デイビスであり、同じくホイッグ党員で、リンカーン同様国家主義経済計画を推進し、実際の廃止論者にはならなかったが奴隷制に反対した。デイビスは判事として1848年の巡回裁判に参加し、折に触れてリンカーンに代理を務めるよう指名することがあった。この二人は11年間巡回裁判に同行し、リンカーンはデイビスを1862年にアメリカ合衆国最高裁判所判事に指名した。その他親密な仲間としてイリノイ州ダンビルの弁護士だったウォード・ヒル・ラモンがいた。ラモンはリンカーンが実際に正規の労働協約を結んだ唯一の地方弁護士であり、1861年にはリンカーンと共にワシントンに行った。
※この「リンカーンとハーンドン」の解説は、「エイブラハム・リンカーンの前半生」の解説の一部です。
「リンカーンとハーンドン」を含む「エイブラハム・リンカーンの前半生」の記事については、「エイブラハム・リンカーンの前半生」の概要を参照ください。
- リンカーンとハーンドンのページへのリンク