リンカーンと南北戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 09:02 UTC 版)
「アメリカ合衆国の保守主義」の記事における「リンカーンと南北戦争」の解説
南北戦争が起きる前、エイブラハム・リンカーンは保守派に訴えようとした。1859年のオハイオ州における演説で、建国の父達の最初の意図にもどるという言葉遣いで、保守主義の意味するものを次のように説明した。 共和党の主要で真の目的は著しく保守的であります。この奴隷制度という要素に関連してこの政府を初期のものに戻し、それを維持する以外のことは何も提案してはいません。この政府を最初に作り上げた人々自身が期待し進めようとしたもの以外の形に変えようとはしていません。 リンカーンは1860年初期の有名なクーパー・ユニオン演説 (Cooper Union speech) で、建国の父達は奴隷制度が自然に消滅し、広がることはないと予測していたと論じて、その立場を説明した。建国の父達は反奴隷制度であり、奴隷制度は善いものという考えはアメリカの理想を踏みにじる急進的な改革だという論点だった。この演説で共和党におけるリンカーンの基盤を強固なものにし、その大統領候補指名に前進した。 南北戦争中のリンカーンは、奴隷制度の処置と南部の再統合について急進派共和党と戦った。そのために共和党の保守派、中道派、および民主党タカ派と独自の連衡を作り上げた。戦後、リンカーンは「誰にも悪意を向けず、全ての者に善意を」と寛大な和平条件を提案し、できるだけ速やかに白人の南部を連邦に再加盟させようとした。リンカーンが暗殺されると、急進派が優勢となり、リンカーンが望んだよりも厳しい条件を南部に突きつけた。 リンカーンはその政歴を通じて、保守派ホイッグ党の最たる者であり、リベラルなジャクソン流民主主義と戦った。事業の利益、特に銀行、鉄道、工場を奨励した。リンカーンはリベラルか保守的かという問題が議論されてきた。ノーマン・グレーバーはリンカーンが保守的だったという論に賛成している。一方ジェイムズ・ランドールは、リンカーンが19世紀のリベラルであると論じ、それと同時に「秩序ある進行を好み、危険な扇動を嫌い、改革のためのこなれていない計画は躊躇」したことにリンカーンの寛容さと穏健さを強調した。「いわゆる「急進派」は南部を虐待し、奴隷所有者を憎み、復讐に飢え、南部の制度を一夜にして変えるような容赦ない要求をすることであり、リンカーンがそれらを完全に避けようとしたことで保守的である」と結論付けた。デイヴィッド・グリーンストーンは、リンカーンの思想が改革的自由主義に乗っているが、その連邦主義やホイッグ党的政策は十分に保守的でもあると論じた。
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