若尾文子と三島由紀夫とは? わかりやすく解説

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若尾文子と三島由紀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 22:45 UTC 版)

からっ風野郎」の記事における「若尾文子と三島由紀夫」の解説

若尾文子と三島由紀夫の初めての接点は、三島原作映画永すぎた春』で若尾がヒロイン百子になったであった三島個人的に若尾のような可愛ポチャポチャとした顔」の愛くるしいタイプ好みであった1957年昭和32年4月初めて『永すぎた春』の撮影が行われている大映多摩川撮影所訪れ、若尾らの演技見学した三島は、脚本担当白坂依志夫に、「何だドキドキして、昨夜眠れなかったよ」と言っていたという。百子演じた若尾について三島は、「正に小説要求するヒロインの姿そのものズパリだつた」と喜んだ。 『永すぎた春』の撮影クランクアップした後、三島と若尾を中心にした座談会開かれた三島当時まだ独身で、正田美智子お見合いをしていたという噂もあり、花嫁探していた時期であった座談会の中で三島なにげなく若尾に、「若尾さんはどうだい、ぜんぜん生活のかけはなれた人が好きになるということはいだろうね」と訊ねて探りを入れていた。 『からっ風野郎』の主演をすることになった三島は、永田雅一社長提示した大映看板女優らから、迷うことなくすぐさま若尾文子選んだ三島にとっては、「好きな女優恋人同士になるのだから、こんな有難いことはない」ことであった撮影入り増村監督いびられながらも三島水谷良重との濡れ場撮り終えると、翌日には若尾を襲うシーン待っていた。「明日は若尾とベッドシーンだぞ!」と三島妙にテンション高く興奮していたという。 そんなミーハー的なファン意識や、自分演技手一杯だった三島も、少し余裕ができると共演者演技鑑賞するようになり、「氷いちごみたいな味覚のような甘い居心地よさの可愛らしい若尾が見せ思わぬ演技力本領目の当たりにして、女優としての若尾の技量感服した。 私はこの撮影中、はじめて、(まことに遅い発見だが)「若尾文子といふ女優タダモノではない」といふ発見をしたのである。(中略今でも忘れられないのは、この映画クライマックスで、強がり弱虫ヤクザの私に、さんざん打擲されたあとの彼女が、それでもお腹の子おろさない頑張り、女の一念見せるところの演技であつた。(中略役柄要求するすべての感情投げ込み充実させて、しかも、その間三段階の様式変化を、リアルに融け込ませて、ちやんとした山場盛り上げてゆく演技の、カンのよさ、自然さ、力強さは全く見事なもので、私はこれを見てゐるうちに、私の役柄において、百パーセント、彼女に惚れ込むのを感じたのである。 — 三島由紀夫若尾文子讃」 撮影合間三島は若尾に自分次の小説お嬢さん』の構想話した。『お嬢さん』は『永すぎた春』と同様にヒロイン結婚テーマにしたエンタメ作品で、『永すぎた春』の後日譚的な様相もあった。若尾が、「私、かすみの役をやりたいわ」と言うと、「それでは、若尾ちゃんに映画化権をあげましょう」と三島決めた。 『からっ風野郎』が公開されヒットした後、若尾は三島から「共演記念に」として、高価なロココ調椅子テーブル銀の燭台贈られた。その年1960年昭和35年)の11月から三島瑤子夫人と共にアメリカヨーロッパ中東香港を巡る周遊旅行旅立ったが、その出発直前に若尾に電話をかけ、「アメリカに行くんだけど、その前に若尾ちゃんと御飯食べたい」と誘った。 若尾は三島一緒に港区芝公園増上寺前にあるフランス料理レストラン「ラ・クレッセント」で夕食食べ赤坂ナイトクラブダンス踊った三島ダンスはあまり上手ではなく強引にリードし、若尾も固くなっていたせいか、少し踊りにくかったと若尾は回想している。 そして三島は、「若尾ちゃんとダンス踊って御飯食べたから、これでぼくも心おきなくアメリカ行けるよ」と、じっと若尾を見つめなが言った後に、例のごとく「わっはっは」と、いつもの哄笑をした。若尾はその後1964年昭和39年)に三島原作映画獣の戯れ』でヒロイン演じたものの、直に三島顔を合わせる機会はなく、赤坂ナイトクラブでの三島哄笑が若尾にとっての三島会った最後の姿であった1970年昭和45年11月25日三島事件での三島自決ニュース知った若尾は、昼食どころでなくなりショック寝込んでしまった。そして若尾は、三島がかつて自分捧げたオマージュ文章読み返した。 人はどうしても、その氷いちごみたいな味覚勝てないのであるこのために彼女の人気は継続したが、同時に演技みとめられるためには、ずいぶんマイナスになつたと思ふ。(中略俳優自分の顔と戦はなければならない。その顔が世間から愛され愛されるほど、その顔と戦はなければならない若尾文子はそれと戦つて、立派に勝つた。(中略映画界といふきびしい世界で雑草のやうな生活力をもつことは、生きるための最初条件だが、これからの彼女には、豊かな、潤ひのある、おほらか世界がひらけて来なければならぬ。人間同士の醜い競争などに心を煩はされない世界が。 — 三島由紀夫若尾文子讃」 三島死後、若尾は1988年昭和63年10月日生劇場舞台で三島戯曲鹿鳴館』のヒロイン朝子演じた三島没後35年2005年平成17年)には映画春の雪』で月修寺門跡演じた。若尾にとって18年ぶりの映画出演だった。この映画企画した藤井浩明は、この役は若尾しかないと決めていた。

※この「若尾文子と三島由紀夫」の解説は、「からっ風野郎」の解説の一部です。
「若尾文子と三島由紀夫」を含む「からっ風野郎」の記事については、「からっ風野郎」の概要を参照ください。

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