若尾文子と三島由紀夫
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「からっ風野郎」の記事における「若尾文子と三島由紀夫」の解説
若尾文子と三島由紀夫の初めての接点は、三島原作の映画『永すぎた春』で若尾がヒロインの百子役になった時であった。三島は個人的に若尾のような「可愛いポチャポチャとした顔」の愛くるしいタイプが好みであった。1957年(昭和32年)4月に初めて『永すぎた春』の撮影が行われている大映多摩川撮影所を訪れ、若尾らの演技を見学した三島は、脚本担当の白坂依志夫に、「何だかドキドキして、昨夜は眠れなかったよ」と言っていたという。百子を演じた若尾について三島は、「正に小説の要求するヒロインの姿そのものズパリだつた」と喜んだ。 『永すぎた春』の撮影がクランクアップした後、三島と若尾を中心にした座談会が開かれた。三島は当時まだ独身で、正田美智子とお見合いをしていたという噂もあり、花嫁を探していた時期であった。座談会の中で三島はなにげなく若尾に、「若尾さんはどうだい、ぜんぜん生活のかけはなれた人が好きになるということはないだろうね」と訊ねて探りを入れていた。 『からっ風野郎』の主演をすることになった三島は、永田雅一社長の提示した大映の看板女優らから、迷うことなくすぐさま若尾文子を選んだ。三島にとっては、「好きな女優と恋人同士になるのだから、こんな有難いことはない」ことであった。 撮影に入り、増村監督にいびられながらも三島は水谷良重との濡れ場を撮り終えると、翌日には若尾を襲うシーンが待っていた。「明日は若尾とベッドシーンだぞ!」と三島は妙にテンション高く興奮していたという。 そんなミーハー的なファン意識や、自分の演技で手一杯だった三島も、少し余裕ができると共演者の演技を鑑賞するようになり、「氷いちごみたいな味覚」のような甘い居心地よさの可愛らしい若尾が見せる思わぬ演技力の本領を目の当たりにして、女優としての若尾の技量に感服した。 私はこの撮影中、はじめて、(まことに遅い発見だが)「若尾文子といふ女優はタダモノではない」といふ発見をしたのである。(中略)今でも忘れられないのは、この映画のクライマックスで、強がりの弱虫ヤクザの私に、さんざん打擲されたあとの彼女が、それでもお腹の子はおろさないと頑張り、女の一念を見せるところの演技であつた。(中略)役柄の要求するすべての感情を投げ込み充実させて、しかも、その間の三段階の様式的変化を、リアルに融け込ませて、ちやんとした山場を盛り上げてゆく演技の、カンのよさ、自然さ、力強さは全く見事なもので、私はこれを見てゐるうちに、私の役柄において、百パーセント、彼女に惚れ込むのを感じたのである。 — 三島由紀夫「若尾文子讃」 撮影の合間、三島は若尾に自分の次の小説『お嬢さん』の構想を話した。『お嬢さん』は『永すぎた春』と同様にヒロインの結婚をテーマにしたエンタメ作品で、『永すぎた春』の後日譚的な様相もあった。若尾が、「私、かすみの役をやりたいわ」と言うと、「それでは、若尾ちゃんに映画化権をあげましょう」と三島は決めた。 『からっ風野郎』が公開されてヒットした後、若尾は三島から「共演の記念に」として、高価なロココ調の椅子とテーブル、銀の燭台を贈られた。その年1960年(昭和35年)の11月から三島は瑤子夫人と共に、アメリカやヨーロッパ、中東や香港を巡る周遊旅行に旅立ったが、その出発の直前に若尾に電話をかけ、「アメリカに行くんだけど、その前に若尾ちゃんと御飯が食べたい」と誘った。 若尾は三島と一緒に港区芝公園の増上寺の前にあるフランス料理レストラン「ラ・クレッセント」で夕食を食べ、赤坂のナイトクラブでダンスを踊った。三島のダンスはあまり上手ではなく強引にリードし、若尾も固くなっていたせいか、少し踊りにくかったと若尾は回想している。 そして三島は、「若尾ちゃんとダンス踊って、御飯食べたから、これでぼくも心おきなくアメリカへ行けるよ」と、じっと若尾を見つめながら言った後に、例のごとく「わっはっは」と、いつもの哄笑をした。若尾はその後1964年(昭和39年)に三島原作の映画『獣の戯れ』でヒロインを演じたものの、直に三島と顔を合わせる機会はなく、赤坂のナイトクラブでの三島の哄笑が若尾にとっての三島と会った最後の姿であった。 1970年(昭和45年)11月25日の三島事件での三島自決のニュースを知った若尾は、昼食どころでなくなり、ショックで寝込んでしまった。そして若尾は、三島がかつて自分に捧げたオマージュの文章を読み返した。 人はどうしても、その氷いちごみたいな味覚に勝てないのである。このために彼女の人気は継続したが、同時に演技をみとめられるためには、ずいぶんマイナスになつたと思ふ。(中略)俳優は自分の顔と戦はなければならない。その顔が世間から愛されば愛されるほど、その顔と戦はなければならない。若尾文子はそれと戦つて、立派に勝つた。(中略)映画界といふきびしい世界で、雑草のやうな生活力をもつことは、生きるための最初の条件だが、これからの彼女には、豊かな、潤ひのある、おほらかな世界がひらけて来なければならぬ。人間同士の醜い競争などに心を煩はされない世界が。 — 三島由紀夫「若尾文子讃」 三島の死後、若尾は1988年(昭和63年)10月に日生劇場の舞台で、三島の戯曲『鹿鳴館』のヒロイン朝子を演じた。三島没後35年の2005年(平成17年)には映画『春の雪』で月修寺門跡を演じた。若尾にとって18年ぶりの映画出演だった。この映画を企画した藤井浩明は、この役は若尾しかないと決めていた。
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