若尾家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 15:28 UTC 版)
「若尾幾造 (初代)#親族」も参照 先祖の若尾藤三郎は遠く甲斐源氏に仕えた武門であったが、新九郎の代に中巨摩郡在家塚村に住んで農に帰し、後年、智恵林右衛門と謳われた学者も出した一族。若尾幾造 (初代)は、父・若尾林右衛門と後妻との間に生まれた弟。 逸平の死後、若尾家は養子の二代民造、三代謹之助まで甲州財閥の中核として栄え、山梨県の政財界において影響力を持つ。二代民造は甲府連隊の誘致において土地を提供するなど尽力し、三代謹之助は自身も郷土研究を行い、「山梨県志」の編纂事業を企図するなど、郷土への投資を行った逸平の代からの教育・文化面での功績が評価されている。若尾家は1930年(昭和5年)の昭和恐慌の影響などにより没落する。
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