「山梨県志」の編纂とは? わかりやすく解説

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「山梨県志」の編纂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 16:16 UTC 版)

山梨県志」の記事における「「山梨県志」の編纂」の解説

明治期には地域名望家教育者政治家など本業かたわら趣味として郷土研究を行う文人風流人数多く出現した。「山梨県志」の編纂を企図した若尾謹之助1882年 - 1933年)は若尾財閥三代目当主。若尾財閥甲州財閥呼ばれる山梨県出身実業家集団のひとつで、創業者若尾逸平鉄道電力事業金融投資し中央財界で台頭したまた、逸平は貴族院議員甲府市初代市長にもなり、謹之助の代においても若尾家県内政財界影響力持っていた。 謹之助は実業家として活動する一方で郷土研究民衆文化研究行い山梨県内郷土玩具研究したおもちゃ籠』(大正4年1915年)刊)及び『おもちゃ補遺』(大正5年1916年)刊)を出版している。 1915年大正4年)には甲府商業会議所により郷土史家赤岡重樹主任とした「甲斐史」編纂会の設立企図される。「山梨県志」は同年11月にこれを引き継ぐ形で発足し若尾家出資により山梨県志編纂会が創設された。 山梨県志編纂趣旨 文化十二松平定能甲斐国誌ヲ撰ス、一帙一百二十三巻十年苦心ニ成ル、真ニ国ノ珍宝タリ爾来正ニ一百年、制度文物、其変遷滄啻ナラズ、而モ録シテ之ヲ伝フルモノナク、徒ニ資料散佚ニ委ス後人ノ疎懶甚シトツベシ。況ヤ明治聖代ヲ閲シテ大正今日ニ逮ブ、豈ニ此際記録ナクシテ可ナランヤ。吾徒微力敢テ之ニ当ルニ足ラズト雖、常ニ之ヲ念フ久シ。今歳我皇即位大礼ヲ行ハセフニ方リ、我ニ思ヘラク昔者、聖皇、諸国風土記ヲ上ラシメタルノ例アリ、吾徒ノ宿志ヲ成ス正ニ此秋ニ有リト敢然茲ニ山梨県志編纂着手ス。識者クハ援助ヲ給ヘ。 大正四年十一月 車駕西幸日山県志編纂総理法学士 若尾謹之助 — 山梨県志編纂会「山梨県志資料目録第壱編纂会は謹之助を総裁県知事名誉総裁会長には若尾逸平伝記執筆した内藤文治良、編纂委員には赤岡のほか広瀬広一、村松志孝らが加わった。「山梨県志」は『甲斐国志』を越え歴史書編纂することを目標編纂企図され、山梨県内旧家寺社所蔵する古文書古記録調査し、さらに山梨県庁所蔵する行政資料調査した。「山梨県志」の編纂に際して県内各市町村に「町村取調書」を送付に、市町村ごとに沿革風土歴史地理人物などの項目を照会している。 「町村取調書」調査項目六十一項「人物」では「社会的顕著ナル事跡を認メラレタモノ」として忠臣孝子学者富者義僕節婦奇人侠客篤行家などを上げている。特に「侠客博徒)」が山梨県においてはある程度肯定的に捉えられていた存在であることが注目されている。 「山梨県志」の編纂は最初刊行となる『現代史』が横浜印刷を待つ段階まで進んだが、1923年大正12年9月1日関東大震災原稿消失したその後1927年昭和2年3月昭和恐慌影響受けて若尾家没落したことにより、編纂事業頓挫した

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