「山梨県志」の編纂
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明治期には地域の名望家や教育者、政治家などが本業のかたわら趣味として郷土研究を行う文人・風流人が数多く出現した。「山梨県志」の編纂を企図した若尾謹之助(1882年 - 1933年)は若尾財閥の三代目当主。若尾財閥は甲州財閥と呼ばれる山梨県出身の実業家集団のひとつで、創業者の若尾逸平は鉄道や電力事業、金融に投資し、中央財界で台頭した。また、逸平は貴族院議員、甲府市初代市長にもなり、謹之助の代においても若尾家は県内政財界で影響力を持っていた。 謹之助は実業家として活動する一方で郷土研究・民衆文化研究を行い、山梨県内の郷土玩具を研究した『おもちゃ籠』(大正4年(1915年)刊)及び『おもちゃ籠 補遺』(大正5年(1916年)刊)を出版している。 1915年(大正4年)には甲府商業会議所により郷土史家の赤岡重樹を主任とした「甲斐史」編纂会の設立が企図される。「山梨県志」は同年11月にこれを引き継ぐ形で発足し、若尾家の出資により山梨県志編纂会が創設された。 山梨県志編纂会趣旨 文化十二年松平定能甲斐国誌ヲ撰ス、一帙一百二十三巻、十年ノ苦心ニ成ル、真ニ国ノ珍宝タリ。爾来正ニ一百年、制度文物、其変遷桑滄啻ナラズ、而モ録シテ之ヲ伝フルモノナク、徒ニ資料ノ散佚ニ委ス後人ノ疎懶甚シト謂ツベシ。況ヤ明治ノ聖代ヲ閲シテ大正ノ今日ニ逮ブ、豈ニ此際ノ記録ナクシテ可ナランヤ。吾徒微力敢テ之ニ当ルニ足ラズト雖、常ニ之ヲ念フ久シ。今歳我皇即位ノ大礼ヲ行ハセ給フニ方リ、我ニ思ヘラク、昔者、聖皇、諸国ノ風土記ヲ上ラシメタルノ例アリ、吾徒ノ宿志ヲ成ス正ニ此秋ニ有リト。敢然茲ニ山梨県志編纂ニ着手ス。識者希クハ援助ヲ給ヘ。 大正四年十一月 車駕西幸ノ日山梨県志編纂会総理法学士 若尾謹之助 — 山梨県志編纂会「山梨県志資料目録第壱楫」 編纂会は謹之助を総裁、県知事が名誉総裁、会長には若尾逸平の伝記を執筆した内藤文治良、編纂委員には赤岡のほか広瀬広一、村松志孝らが加わった。「山梨県志」は『甲斐国志』を越える歴史書を編纂することを目標に編纂が企図され、山梨県内の旧家や寺社の所蔵する古文書や古記録を調査し、さらに山梨県庁の所蔵する行政資料を調査した。「山梨県志」の編纂に際しては県内各市町村に「町村取調書」を送付に、市町村ごとに沿革、風土、歴史、地理、人物などの項目を照会している。 「町村取調書」調査項目六十一項「人物」では「社会的ニ顕著ナル事跡を認メラレタモノ」として忠臣、孝子、学者、富者、義僕、節婦、奇人、侠客、篤行家などを上げている。特に「侠客(博徒)」が山梨県においてはある程度肯定的に捉えられていた存在であることが注目されている。 「山梨県志」の編纂は最初の刊行となる『現代史』が横浜で印刷を待つ段階まで進んだが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で原稿が消失した。その後、1927年(昭和2年)3月の昭和恐慌の影響を受けて若尾家が没落したことにより、編纂事業は頓挫した。
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