郷土史料の蒐集と「甲州文庫」
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「功刀亀内」の記事における「郷土史料の蒐集と「甲州文庫」」の解説
亀内が山梨県の郷土史に関心を持ち郷土史料の蒐集を始めたのは、後年の対談によれば1919年(大正8年)に江戸時代の飛脚制度を知るために甲府市百石町の若尾倉庫に置かれた「山梨県志」編纂会に郷土史家の土屋夏堂を尋ねたときであるという。「山梨県志」は1915年(大正4年)に若尾財閥の三代目・若尾謹之助による民間の修史事業として企図された事業で、多くの郷土史家が編纂委員に加わった。「山梨県志」の編纂は1923年(大正12年)の関東大震災および昭和期の若尾家の没落により刊行寸前で頓挫するが、蒐集された史料は「若尾資料」として集成され、編纂委員の人脈を通じて郷土研究を興隆させた。 亀内は土屋から郷土史料の散逸・消滅の実情を知り、山梨県内の旧家や紙屑商を訪ね、郷土史料の収集を開始する。収集するのみならず整理作業や痛みの激しい史料の裏打ち、調査研究も行い、京都・大阪へも出かけ、史料の筆者も行った。東京へ転居後も蒐集史料を移し、活動を継続している。山梨県関係以外では東洋商業博物館の渋沢敬三や東京大学法学部(現在は東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター)の明治新聞雑誌文庫の宮武外骨に依頼されて史料の蒐集も行った。 また、功刀は武田信玄に関する史料を武田神社(甲府市武田)に寄贈し、昭和8年(1933年)7月23日には、江戸時代の儒学者である山県大弐の和算に関する著作である『牙籌譜』や、医学界の紛争に対して科学的に評論した『素難評医事揆乱』の写本を山県神社に奉納するなど、所縁の社寺への史料奉納を行っている。 戦時下には1943年(昭和18年)11月13日に生家の豊村上今井に大半の蒐集史料を疎開させ、1945年(昭和20年)7月6日 - 7日の甲府空襲による戦災も免れた。また、上野桜木町の功刀宅に残された史料も無事であった。その後、昭和20年に「甲州文庫」は東京へ戻された。1949年(昭和24年)10月には甲府市の松林軒ビルで開催された市制60周年記念の「郷土歴史展」において一部の史料が展示された。この展示には十万人が来訪したという。 「郷土歴史展」を契機に「甲州文庫」は山梨県の人々にその存在が知られるようになり、山梨県内での保存、利用が熱望されるようになり、「山梨県の文化の向上に資すべき」として甲州文庫の山梨県内への移管を求める機運が高まり、具体的な折衝の準備は、当時の山梨郷土研究会理事であった郷土史家の佐藤森三によって進められた。 甲州文庫の山梨県への移管にあたっては、昭和26年5月に甲州文庫評価委員会が設置され同年9月に甲州文庫の実態調査に基づき決定された受入案を以て正式交渉が進められ、1951年(昭和26年)10月9日に譲渡され、山梨県庁構内(甲府市丸の内一丁目)にあった山梨県立図書館(山梨県庁の旧第一南別館)に収蔵された。昭和26年11月1日から7日まで、山梨県立図書館児童閲覧室において「甲州文庫特別展示会」が開催されている。また、平成13年(2001年)には、甲州文庫の山梨県移管50年を記念し「甲州文庫50年 郷土研究に輝きつづける県民の文化遺産」展が9月7日から12月21日まで、山梨県立図書館で開催された。 平成17年(2005年)10月15日の山梨県立博物館(笛吹市御坂町成田)開館により、甲州文庫は同博物館に移管され現在は同博物館に収蔵されている。
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