甲州財閥の盛衰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 07:33 UTC 版)
甲斐国では近世に甲府城下町が発達し、甲州街道や富士川舟運をはじめとする諸街道・物流網が成立し商業が展開される。甲府城下町(新府中)では八日町(甲府市中央)を中心に大店を構える有力商人が出現し、一方で在方においても養蚕や煙草、果樹栽培など商品作物の栽培が行われ、農間余業として行商を行う商人が出現した。また、富士川舟運では廻米輸送を行う下げ荷として塩などの物産を移入しており、これに携わる有力商人が存在していた。 安政6年(1859年)横浜港が開港されると、甲州屋忠右衛門(篠原忠右衛門)、川手五郎右衛門、若尾逸平ら投機商が出現し、彼らは横浜に店を構え蚕糸や果樹など甲州物産を輸出し財をなした。忠右衛門らはその後養蚕恐慌により没落するが、若尾逸平らは新興町人として成長し、彼らはいずれも甲府町方の商人に対して在方に出自をもっている。 明治中期には若尾逸平、雨宮敬次郎、根津嘉一郎らの先駆者に続き小野金六、小池国三、古屋徳兵衛、堀内良平らが出現し、彼ら養蚕・生糸事業で得た資本を当時有望性のあった鉄道や電力などの新事業に参入する。中央線の敷設に際しては対立するものの、1896年(明治29年)には山梨県内の豪商農層を総動員して東京電燈の株式過半数を買い占め、電気やガスなどの公共事業や株式投資で産業界における存在感を強め、明治後期・大正時代には山梨県政や東京市政にも参画した。 昭和初期の金融恐慌で総帥的立場にあった若尾家が没落し、世代交代により郷土意識が希薄化すると影響力は弱体化する。戦後は財閥解体などにより規模が縮小し、その後もロッキード事件などの汚職に甲州系資本が関与したなどによるイメージダウンや、平成不況などにより廃業・合併する企業が増えるなど現在では甲州系資本の影響力は低下している。 甲州財閥は戦後の山梨県近現代史研究においても主要な研究テーマとなっており、斎藤康彦は若尾家を題材に地主、企業家、銀行家のそれぞれの側面から分析し、甲州財閥を支えた豪農商層の考察や地方産業の研究と合わせて山梨県近現代の経済産業史を通観している。また、山梨県立博物館では若尾家など甲州財閥に関係する展示を行っている。
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