興行から製作へ
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1927年(昭和2年)、中華民国ハルビン特別市(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に生まれる。 内地に引き揚げた後、1940年代に映画館勤務を始め、1953年(昭和28年)2月に茨城県猿島郡古河町(現在の同県古河市)の新興館の経営が変わり、館名を古河セントラル劇場(経営・森田三郎、のちの古河オデオン)と変更、湯浅は26歳で同館の支配人に就任している。同館は戦前から存在する古い映画館で、新興館になる前は共楽館という館名であった。その後、1955年(昭和30年)には、古河セントラル劇場を退職して同県水戸市の水戸大映映画劇場(経営・間宮厚)に移籍、同館の支配人に就任している。同館支配人を8年間務め、1963年(昭和38年)には新潟県小千谷市の小千谷東映を経営、映画館で20年のキャリアを積む。 それに並行し、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社として第7グループ事務所を設立、事務所を東京都港区赤坂新町(現在の赤坂7丁目5番34号)のリキビルに置き、湯浅は同社の代表を務めた。同社設立第一作として、成人映画『熱いうめき』を製作、監督として元新東宝の三輪彰を招いた。同作は、1963年(昭和38年)4月25日に公開された。三輪は、同作のあと『成熟への階段』(1963年11月公開)、『濡れた手』(1964年5月公開)を監督したがこれで降板し、1964年(昭和39年)6月に公開された『夜の魔性』については、湯浅が岩佐 浪男の名で監督した。翌1965年(昭和40年)1月に公開された湯浅の監督作『禁じられた遠い道』からは、本名に戻した。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、宮口圭、深田金之助、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、湯浅の名を挙げている。 事務所でスポーツ新聞に目を通していた湯浅は、安藤昇が書いた「安藤組解散の手記」を読んで、現金50万円を懐に安藤の自宅を訪問し、映画化権を取得して、『血と掟』の企画を実現する。当初は新東宝の俳優が主演する予定だったが、湯浅の熱意で安藤昇本人が出演することになった。。同作は松竹が配給して全国公開され、同年度の松竹の配給作品で最高の興行収入を上げている。以降、女優・桑野みゆきの父・齋藤某が主宰したCAGで安藤組関連のヴァイオレンス映画を数本監督し、松竹に供給することになる。1966年(昭和41年)6月に公開された『危険な戯れ』(主演松井康子)以降は、同じ赤坂の国際ビデオ(代表・建部博、1962年5月設立)と提携して、映画製作を行った。「独立プロ初の十大女優総出演による超大作」と銘打ち、香取環、松井康子、谷口朱里、可能かづ子、飛鳥公子、桂奈美、清水世津らが出演した成人映画『悲器』(1966年9月公開)からは、国映(代表・矢元照雄、1957年6月設立)と提携した。同年11月、台湾との合作『母ありて命ある日に』をきっかけに台湾に渡った。 台湾では、同年中に『霧夜的車站』および『東京流浪者』を公開し、日本に増して劇場用映画を量産しており、1969年(昭和44年)には台湾(中華民国)への帰化を申請している。両作には東條民枝(旧名・君和田民枝)、神原明彦、山本昌平、津崎公平、川辺健三、当時湯浅の助監督であった安藤達己(1938年 - 2013年)が出演しており、津崎は『青春悲喜曲』『懐念的人』、安藤は『難忘的大路』にも出演している。1970年(昭和45年)には、同地において1967年(昭和42年)に公開されていた『大忍術映画 ワタリ』(監督船床定男、日本公開1966年7月21日)で絶大な人気を得た少年俳優金子吉延を日本から招聘し、金子を主演に『神童桃太郎』『桃太郎斬七妖』の2作を製作、湯浅はこれを湯 慕華の名で監督している。1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する。 『日本映画監督全集』の湯浅の項を執筆した山根貞男は、1975年(昭和50年)の夏に日本に一時帰国、その後台湾に戻ったという話を伝えているが、その後の消息は不明である。台湾で22作の劇場用映画を監督、あるいは脚本提供していることがわかっている。『悲器』の撮影技師であり、ともに台湾に渡り、『霧夜的車站』等の撮影をした中條伸太郎(1934年 - 2001年)は、2001年(平成13年)7月2日に台北で亡くなっており、湯浅の助監督を務め台湾では俳優として出演した安藤達己も、2013年(平成25年)2月7日に亡くなった。 湯浅浪男は、平成3年4月22日に65才で亡くなり、横浜戸塚区にあるメモリアル・グリーンで眠っており、墓守は養子の義勝が行っている。 台北では、(財)国家電影中心が熱心に資料を残してくれている。
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