脱退・追放・終焉
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国際連盟は戦間期のギリシャ・ブルガリア紛争などの小規模紛争解決に一定の役割を果たしたが、第二次エチオピア戦争などでは実効性を挙げられないケースもあった。 脱退 1925年にはコスタリカが、連盟運営分担金の支払が不可能になったために、国際連盟から初めての脱退となった。翌1926年にはブラジルが常任理事国参入失敗を機に脱退した。1930年代には、満州国が承認されなかった大日本帝国、またナチスが政権を掌握したドイツが脱退(1933年)。その後、ホロドモールを収束させたソビエト連邦が加盟(1934年)するが、第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国が脱退(1937年)、以降も後の枢軸国側中小国の脱退が続出し、大規模紛争の解決に対する限界を露呈した。ヨーロッパの状況が戦争へとエスカレートしていく中で、総会は1938年9月30日と1939年12月14日に、連盟が合法的に存在し続け、縮小して活動を行うのに十分な権限を事務総長に移譲した。連盟本部だったパレ・デ・ナシオンは、第二次世界大戦が終わるまでの約6年間、無人となった。 ソ連の追放 第二次世界大戦勃発後の連盟は、各国代表が本国に帰還したことで規模縮小を余儀なくされたものの、一部専門家委員会の会合や予算執行などのための総会は開かれていた。また理事会は1939年12月に、前月から開始されたフィンランド侵略を理由にソ連を除名した。しかし、戦争の激化とともに総会・理事会の開催が困難となり、代替として総会議長であるユダヤ系ノルウェー人のC・J・ハンブロ(英語版)を委員長とする管理委員会を結成し、戦時中もロンドン、リスボンなど場所を移して会合を続けた。 職員不足・分担金未納問題 事務局の一部機能を非加盟国であるアメリカ合衆国のプリンストン、薬物部をワシントンD.C.、財務部をロンドン、姉妹機関の国際労働機関をカナダのモントリオールへと分散配置した。戦争による職員減少や分担金未納による予算不足により、活動は統計記録の維持など最小限のものとなったが、プリンストンでは戦後に新国際組織を創設する計画・議論が行われていた。 国際連合創設案 1943年のテヘラン会談で、第二次世界大戦の連合国は国際連盟に代わる新しい組織である国際連合(国連)を創設することに合意し、1944年のダンバートン・オークス会議で国際連合憲章の原案が策定された。国際労働機関など、連盟の多くの組織は機能を維持し、最終的には国連の傘下に入った。国際連合の構造の設計者は、国際連盟よりも効果的な組織にすることを意図していた。 最後の総会・国際連合への移管・解散 国際連合発足後の1946年4月8日、最後となる第21回総会がジュネーヴで開催された。この会議には34か国の代表者が参加した。この会議では連盟の清算が議題となり、1946年当時で約2200万米ドル相当の資産(国際連盟本部であるパレ・デ・ナシオン、連盟の文書館など)を国際連合に移管し、予備費は拠出した国に返還し、連盟の債務を清算することが、4月18日の投票により決定した。総会は、国際連盟の創設者の一人であるロバート・セシルの次のような結びの演説で幕を閉じた。 侵略は、それがどこで起きようと、どのように擁護されようと、国際的な犯罪であり、それに反発し、それを粉砕するために必要なあらゆる力を行使することは、平和を愛するすべての国の義務であること、適切に使用されるならば、憲章の機構も、規約の機構と同様に、この目的のために十分であること、そして、全ての国の心ある市民は、平和を維持するためにいかなる犠牲も払う用意があることを、大胆に言おうではありませんか。私はあえて、平和のための偉大な仕事は、私たちの国の狭い利益だけでなく、個人と同様に国家が依存する善悪の大原則にかかっていることを聴衆に印象づけたいと思います。連盟は死にました。国際連合万歳。 総会では、「総会閉会の翌日(4月19日)をもって、国際連盟は、本決議に定める事務の清算のみを目的とする場合を除き、その存在を停止する」という決議がなされ、国際連盟は4月20日に解散した。国際司法裁判所や国際労働機関は国連に引き継がれた。 各国9人で構成された清算委員会は、その後15か月間、連盟の資産や機能が国連や専門機関に移管されるのを監督し、1947年7月31日に解散した。 国際連盟のアーカイブは国際連合ジュネーブ事務局に移管され、現在はユネスコの世界記憶遺産に登録されている。
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