脱退と解任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 16:38 UTC 版)
「エメリン・パンクハースト」の記事における「脱退と解任」の解説
WSPUが器物損壊を容認したことで、何人かの重要なメンバーが脱退することになった。最初はエメリン・ペシック・ローレンスとその夫のフレデリックだった。長い間、二人はグループの指導者として不可欠な存在だったが、気づいた時には、このような危険な戦術方法についてクリスタベルと対立する関係になっていたのである。カナダでの休暇から帰国した二人は、パンクハーストが二人をWSPUから追放したことを知った。しかし運動の分裂を避けるため、二人はおおやけの場ではパンクハーストとWSPUを賞賛し続けた。同じ頃、エメリンの娘アデラも脱退した。彼女は、WSPUが器物損壊を推奨することに反対し、社会主義により重点を置く必要があると感じたのだった。この結果、アデラとパンクハースト家の家族、特にクリスタベルとの関係もぎくしゃくしたものに変わった。 パンクハースト家に最も深い亀裂が入ったのは、1913年11月にシルヴィアが、労働組合組織者であるジム・ラーキンを支持する労働組合主義者と社会主義者の会合で演説をした時だった。彼女は、社会主義者や労働組合主義者と密接な関係にあったWSPU地方支部であるイースト・ロンドン・サフラジェット連合(ELFS)で活動していた。労働団体との密接な関係、そしてシルヴィアがフレデリック・ペシック・ローレンスとともに演台に現れて聴衆に演説したことから、クリスタベルは、妹が参政権運動でWSPUに対抗する可能性のあるグループを組織していると確信した。この論争はおおやけになり、WSPU、独立労働党、ELFSなどのグループのメンバーは一触即発の状態になった。 1月、シルヴィアはエメリンとクリスタベルが待つパリに呼び出された。パンクハーストはアメリカでの講演旅行から帰ってきたばかりで、シルヴィアも刑務所から釈放されたばかりだった。3人とも疲労とストレスを抱えていて、それが緊張を高めた。シルヴィアは1931年の著書『The Suffrage Movement』の中で、クリスタベルは理不尽な人物で、WSPUの方針に従わない彼女に長い説教をしたと記している。 彼女は私に向き直り、言いました。「あなたにはあなた独自の考えがあるようですね。私たちはそんなことは望んでいません。私たちが望んでいるは、すべての女性が指示を受けて軍隊のように歩調を合わせることです!」。議論するには疲れ過ぎ、体調も悪すぎたので、私は何も答えられなかった。悲劇的な感覚に襲われ、彼女の冷酷さに悲嘆に暮れた。彼女の独裁賛美は、私たちが行っている戦い、監獄で今なお続いている厳しい戦いから、あまりにかけ離れたものに思えたのだ。私は、些細な意見の違いを理由に脇に追いやられた他の多くの人たちのことを考えた。 母親の承認を得て、クリスタベルはシルヴィアのグループにWSPUから脱退するよう命じた。パンクハーストはELFSの名称から「サフラジェット」という言葉を取り除くよう説得を試みた。その言葉はWSPUと密接に結びついていたからである。シルヴィアがそれを拒否すると彼女の母親は手紙に激しい怒りを書きつづった。 あなたは不合理です。今までも常にそうだったし、これからもそうなのではないかと恐れています。きっと変わらないのでしょう。……もしあなたが私たちの受け入れられる名前を選んでくれていたら、私たちは名前を出してあなたの団体を宣伝し、あなたを応援するために多くのことができたでしょう。もはやあなたは自分自身のやり方でそうしなければなりません。残念ですが、あなたは状況を自分の視点からしか見ておらず、他人の視点から見ることができていません。そのために自らで困難な状況を作り出しているのです。いずれあなたも人生で学ばなければならない教訓を学ぶことができるのかもしれません。 脱退後に先行きが不安定になったアデラは、パンクハーストにとっても悩みの種となっていた。彼女はアデラをオーストラリアに移住させることを決め、その移住費用を負担した。その後、二人が会うことは二度となかった。
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