結成から最盛期
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「クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス」の記事における「結成から最盛期」の解説
フラワー・パワー、ヒッピー・カルチャーや社会背景(公民権運動、反戦運動)から、1966年以降顕著化したサンフランシスコのロック・ムーブメントで最初期から代表格の一つだったが、大手レーベルとの契約は遅かった。前述の麻薬違反からメンバーを欠く状態で不安定だったこと、それにまつわるマナーの悪さを問題視された結果だった。当時、暗喩的にドラッグを扱った曲が相次いで放送禁止処分になるなど、レコード会社にとって特にサンフランシスコ拠点で活動するロックバンドとの契約はリスクと紙一重で慎重だった。 流行のサイケデリック・ロック (マリファナ、LSDなどのドラッグによる擬似神秘体験を表現する音楽)で、ステージは左利きのジョン・シポリナがフィードバックなど電気効果、ヴォリューム、トレモロ・アームを駆使するギブソン・SGギターでクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの人気は確立する。 大手レコード会社とのレコーディング契約のチャンスが回ってきたのは、1967年のモントレー・ポップ・フェスティバル出演によるものだった。このイベントを機に時期は前後するが、共演したジャニス・ジョプリンのビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーがメインストリーム・レーベル(Mainstream Records・英語版)からコロムビアに移籍、マイク・ブルームフィールドらのエレクトリック・フラッグやモビー・グレープがコロムビアと契約しており、ビートルズ人気で新規開拓に積極的ではなかったため出遅れていたキャピトル・レコードが彼らとスティーヴ・ミラー・バンドを選び出した。同年、スティーヴ・ミラー・バンド、マザー・アース ( Mother Earth・英語版)らと映画『レボリューション (Revolution ・英語版)』のサウンドトラック・レコーディングを行い(劇場公開とサウンドトラック発売は1968年。発売レコード会社は映画会社系列のユナイテッド・アーティスツ・レコード)、その直後という時期に、ジム・マレイがグループを去りハワイへ移住してしまう。残る4人による活動で1968年にグループ名のみのタイトルでファースト・アルバムを発表。アルバムは、エレクトリック・フラッグのニック・グラヴィナイツらの協力、アドバイスを仰ぎライブ演奏で披露した長尺曲は短めに纏めて全体が小ぢんまりとした印象の内容だった。 全米にグループ自身の魅力を告げるには翌1969年のアルバム『ハッピー・トレイルズ』のリリースが欠かせないこととなる。グレイトフル・デッドから移動用の録音装置アンペックス・8トラック・モービルを借り擬似ライブ(フィルモア、ウインターランドなどで録音)とスタジオで収録された。当時流行の実験ロックにあってはギター声明LPレコードと言うべきもので、エレキ・インストロメンタルのザ・ベンチャーズやイギリスのシャドウズ等から電気ギター奏法を応用したブルース・コードを中心に延々ギターをかき鳴らす演奏録音の嚆矢となった。それは後年言うところのジャングル・ビートが曲をつなぎ、ラストのカントリー・ソングまで物語を作り出した。異国情緒を醸す独特なジョン・シポリナのエレクトリックギター奏法は意外にも遠いトルコのギターキング、エルシン・コライ(Erkin Koray・英語版)がギブソン・SGギターでトルコ独自のフォークロック表現に実験音楽の一環から土着民族音楽を取り入れた際に活かされた。 アルバムは完成したもののバンド自体は分裂し、ゲイリー・ダンカンはディノ・ヴァレンティと新しいグループ、ジ・アウトローズ結成のためバンドを離れる。 3作目のアルバム『シェイディ・グローヴ』を制作する。再びニック・グラヴィナイツが楽曲提供し、ニッキー・ホプキンスを迎えて新たな展開を図る。1969年はライブ活動出演を減らしダンカン、ヴァレンティが復帰しスタジオ・ワークに時間を割き、翌1970年に6人編成で傑作アルバム『ただ愛のために』をリリース、同年に録音したアルバム『ホワット・アバウト・ミー』の頃にはホプキンスが、1971年に入るとジョン・シポリナも抜けてしまう。何度目かのドラッグ所持逮捕から脱退を余儀なくされたフライバーグは復帰を避けカントナー、グレイス・スリックらの末期ジェファーソン・エアプレイン(ジェファーソン・スターシップ)に合流する。 バンドの音楽志向や活動方針が固まっていなかった初期からメンバーの信頼と期待を一身に集めたディノ・ヴァレンティは、フラワー・ムーブメントで賛歌の一つだった「ゲット・トゥゲザー」(ヤングブラッズでヒット)の作者として有能なソングライターだった。 詳細は「ゲット・トゥゲザー (1964年の曲)」を参照 バンドにとってこの楽曲制作者は、レーベル契約に欠かせない存在だったが前述の通り、麻薬違反服役で脱落、残されたメンバーはライブ演奏に活路を見いだして地元では絶大な人気を獲得し、遅いレーベル契約を経て全国的な名声を博する成功を勝ち取った。ヴァレンティの復帰はバンドの弱点だった楽曲制作者不在は解消されたが皮肉にもメンバー間に不和をもたらしてしまう。ヴァレンティの作る耽美的メロウな曲やラテン・ロック等のアプローチといった音楽指向は、1970年代以降にダンス音楽嗜好のロック・ミュージックからシンガーソングライター・ブームやAORのブーム迎合到来のなか完成されてゆくもので、時流のリズムがずっしりしたギター楽曲(ハードロックなど)にアイアン・バタフライなどが全盛の時期では早すぎ場違いなものだった。サンフランシスコを離れ、オリジナル・メンバーのジム・マレイが長期滞在のサポートを行いハワイ州・オアフ島ハレイワのスタジオでじっくりと録音作業を進めた『ただ愛のために』は良作だったが、ライブ演奏で名を高めたクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスを否定しかねない作品だった。
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