第二夜 一世と二世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:30 UTC 版)
「99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「第二夜 一世と二世」の解説
1940年、長吉・とも夫妻は長男の一郎に加えて次男の次郎、長女のしづ、次女のさちを設け、多くのアメリカ人も雇って自らの苗字を冠した農場を経営するまでになっていた。高校を修了した一郎は大学進学を希望しており、一方次郎は学校には余り興味はなく、農作業に夢中で雇われた農場作業員にも慕われていた。 シアトル大学に通うようになった一郎は日系移民初期から生じていた黄禍論に基いた嫌がらせを受けつつも、同じように通う日本からの留学生で外交官令嬢・松澤しのぶが大学構内で暴行を受ける寸前のところを救い、運命的な出会いを果たした。家業の農作業や酪農作業にも興味を示したしのぶは平松兄弟姉妹との触合いの中で、アメリカで暮らす日系人に同情の念ばかり持っていた自分の誤りに気づき、大地に強く根を張るように生きている平松一家に感じた力強さに感銘し、一郎との親密度を着実に深めた。そんなしのぶと一郎の動向を見ていた長吉がともとの会話で跡取り問題を持ち出して懸念を生じさせていた。だが、一郎は意を決してしのぶに両親と会ってほしい、松沢副領事にも挨拶したいとプロポーズをした。 その折、独軍の欧州諸国侵攻と日本陸軍のアジアでの英領仏領蘭領侵攻に対して米政府は独伊日の在米資産凍結を発令し、日系商社員の大半も帰国することになったと野中から状況を聞かされ、しのぶの父親である松沢副領事にも本省から帰国命令が出たということが長吉にも伝わり、一郎としのぶとの仲に見切りがついたと納得。更に市街の様子を見に野中を訪ねた長吉が見たのは昼日向の街中で一人歩きの日系女性へのあからさまな性的暴行未遂、長吉の目の前で野中が受けた嫌がらせ、港で投掛けられた蔑みの満ちた暴言などを受け、長吉はしづやさちを今のうちに日本に一時帰国させるべきという思いを高まらせた。ある日、家族とともに帰日することを決めたしのぶに別れを告げた一郎は帰り道にしづの強姦未遂現場に出くわし、余計な心配を掛けないように皆には内密にと言い聞かせた。夕食の席で嫌がらせに辟易したさちの不平への共感を示したしづの態度に何かを感じた長吉は二人を日本に返すことを決め、最後の引揚船に乗船させた。そこには松沢副領事夫妻に付いて帰国するしのぶの姿もあったが、しづ、さちを見送りに来ていた一郎・次郎らには気づいてはいても振り返ることもなかった。とも・しづ・さちは別れを惜しんだが、長吉の一喝で二人は乗船し、ともは波止場で見送らずに一人待合所で泣き暮れていた。しかし出港後、しのぶは船から海上に飛び降りて近くの浜へ泳ぎ着いた。 一晩掛けて遂に平松家に辿り着き、翌朝になって納屋で休み隠れていたところを一郎に見つかった。しのぶを一郎の嫁とは認められない長吉はひとまずは領事館に事情を伝え、農場作業員見習いとして平松家に置くことにした。農場の仕事をこなしていくしのぶの姿を見てはいたものの長吉の考え方は変わらず、増員された正規作業員程度にしか考えていなかった。一郎や次郎、ともは長吉の振る舞いに抗議し、クリスマスには婚約祝いをするという宣言をともから突き付けられた長吉は二の句が告げられないほどたじろいでいた。 その頃日本の奥出雲では、松澤夫人に付添われてしづとさちが長吉の兄良助の下を訪ねていたが、長吉の実家では長吉の両親と兄夫婦に加え、兄夫婦の息子家族の大大所帯で生活が困窮しており、しづとさちの面倒を見れる状況ではなかったため、広島に嫁いだ長妹・ふさがしづを、沖縄に嫁いだ次妹・ときがさちをそれぞれ引き取ることとなり、広島のしづの預かり先で離れ離れとなって、さちは沖縄の預かり先へと連れて行かれた。 12月7日、ラジオのニュースは引っ切りなしに真珠湾攻撃を伝え、日系人社会の大物となっていた岡田勇が自宅でFBIに拘束され、他にも日系人社会の思想信条の指導的立場にある上層部の人間が次々に拘束されたとの一報がもたらされた。日系人社会で重要な役割を担うようになっていた長吉は身辺整理のために書籍類を次々と焼却し、翌朝FBIに連行された。
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