真言宗から単独教団の体制
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1939年(昭和14年)9月1日、ナチスドイツはポーランド首都ワルシャワに侵攻、欧州で第二次世界大戦が勃発。翌昭和15年には国策遂行のため全国民をもって組織する大政翼賛会が発足した。昭和16年になると日本の国情も切迫、日米開戦は避け難い状況となり、高度国防国家体制確立のためとあって、大政翼賛会の諸策が一段と強硬に推し進められ、民間の諸団体はほとんど解体された。代わって生まれたのが、産業報国会、農業報国会、大日本婦人会などである。各報国会は傘下の小企業を大企業へ吸収あるいは合併して、下部組織をできる限り簡素化した。 このような状況下にあって単独の宗教団体だけが超然としていることは勿論許されなかった。宗教報国会が生まれ、宗教団体にも再編成の風が強まっていた。当時、真言宗は多数の諸派に分かれており、政府が民間団体の再編成を強行したのは、一に上意下達の簡明な筋を通すことにあり、一つの宗旨において多数の宗派が存立することは、もとより認められるところではなかった。 ここに真言宗の大同団結が国策の下に行われ、文部省主導のもと真言宗の「派名」を解消して、ただ一つの巨大な「大真言宗」になった。従って、「立川不動尊教会」も、従来は真言宗醍醐派立川不動尊教会であったのが、「真言宗 立川不動尊教会」となった。この間、宗教団体法の規制に従い、従来の立照講、清瀧講を糾合し、文部省宗教局に「常宝会」を届け出、1942年4月21日付で認証を得た。キリスト教をはじめ宗教弾圧が激化するなか、戦時体制下での布教活動の円滑に備え、各地に点在する信徒を軸に支部を形成した。四ッ谷、日本橋と帝都圏にも活動が広がった。常宝院主となって、神仏分離令、廃仏毀釈、修験道廃止令以来、荒廃をたどった堂刹「一住坊」の復興を果たし、特命住職の任を果たした金剛院真乗法印は、さらに本宗部への上行をかさね、1943年3月5日、傳戒大阿闍梨 醍醐寺座主 三宝院門跡佐伯恵眼大僧正の許、真言最極の秘法『金胎両部伝法灌頂』を畢えて「伝燈阿闍梨位」に就いた。この時期、一般信徒のみならず、盛名を伝え聞いた他派に属する修験行者も多く参集するようになった。この同志的結集が戦後の独立、新たな宗団形成に結んでゆく布石となった。1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争の終結を見て、戦時中のあらゆる枠が一挙に取り外された。戦時下故に大合同を行った真言宗各派も、再び各宗派ごとに分立(分派還元)し、それぞれ独立法人の姿勢をとった。 この時を機に、立川不動尊教会は真言宗を離れ新たな宗団を形成、独立した。新体制となった新生醍醐派とは自然離脱のかたちとなった。ここにいずれの宗派にも所属しない単独宗団の体制をとり、教師養成機関「智泉寮 現 智流学院の開設、まこと基礎行の充実、独立宗団(教団)としての教理体系の深化等に努めるなか、大般涅槃経を正依経とする唯一の仏教宗団となった。かくして、教説、修行、布教にも既成の真言宗の教義教説に束縛されることなく、出家・在家双修という独自の地歩を築き固める基盤を確立することができた。 1946年(昭和21年)10月に機関紙「月輪(げつりん)」を発行した。その発行名義人は立川不動尊教会内の「青年教養会」であった。青年教養会は「月輪」発行のほかに「教養座談会」(毎日曜定例開催)を主宰したが、同じ時期に東京の順天堂医院内にも内弟子を中心とする「白百合教養会」が生まれた。戦後の混乱期に、早くも青年層を中核とする活動が見られた。
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