真言宗に入る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正安3年(1301年)、数え24歳の時、文観ははじめて真言宗に入り、真言律宗上の師である慈真和尚信空と、真言宗醍醐派の実力者である大僧正道順の両方から灌頂(かんじょう、授位の儀式)を受けた(『瑜伽伝灯鈔』)。 文観は、信空からは両部灌頂(りょうぶかんじょう)という灌頂を授けられた(『瑜伽伝灯鈔』)。真言宗の僧侶としての信空は、叡尊を経由して、平安時代後期の高僧の元海に始まる小野松橋流という系統に連なることになる。叡尊が、真言律宗上の弟子に対し、真言宗の松橋流を授けたのが確実なのは、信空を含めてわずか3人しかおらず、いずれも叡尊の弟子としては上位10人に入るほどの高僧である。それが文観に引き継がれたということは、このとき文観は既に、第2世長老である信空の腹心の一人であり、西大寺全体としても重要な地位にいたことは間違いない。 同年、真言宗醍醐派報恩院流の大僧正道順からも、具支灌頂(ぐしかんじょう)というものを授けられ、報恩院流の真言僧にもなっている(『瑜伽伝灯鈔』)。どうやって文観が道順と知り合ったのかは不明である。松橋流も報恩院流も三宝院流から分かれたという意味では、遠い親戚と言えなくもないのだが、西大寺と醍醐寺報恩院に特に繋がりはないし、師の信空と道順も関係は薄い。ただ、本照房性瑜という真言律宗の高僧が、真言宗の勧修寺流の法脈を受けた例など、個々の律僧が西大寺本部と関係なく、独自に真言宗を学ぶ気風は当時あった。そのため、文観が道順と知り合った経緯は不明でも、文観が道順から灌頂を授けられたことそのものは、律僧として逸脱していた訳ではない。
※この「真言宗に入る」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「真言宗に入る」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。
- 真言宗に入るのページへのリンク