白の時代とは? わかりやすく解説

白の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 10:28 UTC 版)

モーリス・ユトリロ」の記事における「白の時代」の解説

この頃モーリス・ユトリロ画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリス画商となったルイ・リボートが最初買い手として現れる。 これ以前にもモーリス売ってくれる者であれば誰にでも絵画売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊訪れユトリロ作品に目を留めヴァラドン絵画売買が可能か否か問い合わせた。この時代ユトリロ初期パリランス大聖堂描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴ手数料を払うよりも、シュザンヌ直接取引したがった1909年ユトリロサロン・ドートンヌ2点出品した。これがユトリロ作品世に出た初めての展覧会であったこのうち一つ彼の代表作一つであるノートルダム橋であった同年ヴァラドン=ムージス夫妻破局迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマン真向かい位置するコルトー12番地のアトリエ独占したが、年内ユトリロクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続き開始しヴァラドン一切拒絶した。 そのためモンマニーに移り住んだ一家経済問題直面することとなる。ヴァラドンユトリロもユッテルも収入全くなかった一時期ユトリロ石膏採掘場労働に行かせたが、公衆面前大暴れ警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロ冒した失態仲裁務めた。また時間があったときはユトリロ自身描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロ才能理解していた。モンマルトル作品倉庫半ダースほどの作品購入転売成功し利益得た1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚セーヌ県裁判所控訴院確定したにもかかわらずヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエ保持した一方ユトリロアルコール影響を受け続け泥酔した際にそのこと自体猥褻の罪で起訴され罰金刑受けている。この年秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官知り合う。彼は「カスクルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく二人彼に店の奥で絵を描くことを許した完成した絵はゲイ自分カフェホール掛け、それが好評博し芸術家としてモンマルトル一帯認知されようになった1912年にリボードはユトリロ絵画価値急上昇したため専属契約交わしささやかな規則的報酬引き換えにした。これは一家経済的安定もたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦めヴァラドンと共にユトリロ絵画利益見出そうとする。そのためリボードとヴァラドン対立発生した4月にフランソワ・ジュルダンの計らいユトリロはドリュエ画廊にて6点作品展示した。リボードはユトリロ利益彼にもたらしたことで、ユトリロ制作注文して作らせ制御下におこうとしたヴァラドンはこれに対抗しようとしたがうまくはいかなかった。4月末から5月初めにかけてユトリロ健康状態悪化した。アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ責任持って芸術家病院入れるように促したが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとヴァラドンの関係がさらに悪化し最終的にリボードはモーリス入院費用支払うこととなったサノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回復した入院ユトリロは、精神障害者一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドアシステムおかげで病院を出ることが許された。彼は芸術家だったためルヴェルテガ博士絵を描くことを勧めユトリロ多くの絵を描いた治療効果的で、7月末に一家友人提案ブルターニュに行くことを医師認めた。ルイ・リボードはそれを知ると契約内容ユトリロ迫ったユトリロ提案者である友人リッシュモン・ショドワ、ヴァラドン、ユッテルと共にウェサン島で2ヶ月以上休暇過ごした。そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案である「1ヶ月に6以上描かない」のため、12以下の風景および2点小さなカルトンしか描かなかった。ヴァラドン息子作品サイン偽造したが、買い手気づいていた。10月末に全員パリ戻ったユトリロサロン・ドートンヌ参加し、「サノワ通り」と「コンケの通り」の2点出品した。しかし12月に再びユトリロ健康状態悪化しサノワ診療所に再入院したその結果1913年大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロ作品出品されヴァラドンとユッテルは自分たちも各々展覧会参加する一方でユトリロ発表の面倒も見たユトリロ作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊ユトリロ最初個展開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作され31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会失敗しユトリロ多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドン手紙送った日にち遅れたが、10月ユトリロヴァラドン、ユッテルはコルシカ島出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し20点ほどの作品描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院チント山腹の修道院コルト通りなどを描いたのだったコルシカ島から帰った直後ユトリロヴァラドン通じて画商マルセイユ知り合ったマルセイユはリボードの物と比較してユトリロ好条件契約提案し、それはすぐに成立したユトリロはこの収入モンマルトルの丘にて酒場回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士診療所治療を受けることとなったユトリロ1914年前半サノワ過ごし、絵を描き続けた。また買い手見つかった3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売かけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日ドルーユトリロ作品をホテル・ドルオに出品する失敗し10点もの作品買い戻すこととなった。この結果今まで行った過度干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂生まれ契約破棄された。この結果ユトリロ安定した収入失った。彼はルヴェルテガ博士診療所出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由兵役免除された。9月1日ヴァラドンとユッテルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍したユトリロはまた酒場入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユトリロ数百点に及ぶ作品残している。

※この「白の時代」の解説は、「モーリス・ユトリロ」の解説の一部です。
「白の時代」を含む「モーリス・ユトリロ」の記事については、「モーリス・ユトリロ」の概要を参照ください。

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