国民美術協会 - ドガに師事
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「シュザンヌ・ヴァラドン」の記事における「国民美術協会 - ドガに師事」の解説
ヴァラドンは1894年に(1861年に設立され、活動を中断した後)シャヴァンヌ、オーギュスト・ロダン、カロリュス=デュランによって1890年に再結成された国民美術協会の展覧会に出展した。シャヴァンヌには反対されたが、選考委員会の委員であった彫刻家のアルベール・バルトロメ(フランス語版)の支持を得て、出展が認められた。女性画家の出展は初めてのことであった。しかも、《孫息子の身づくろい》、《祖母と孫息子》を含む素描5点を出展し、初めて買い手がついた。美術品蒐集家でもあったエドガー・ドガである。ドガはヴァラドンを他の美術品蒐集家や、ロートレックの画商として知られるル・バルク・ド・ブートヴィル(フランス語版)、画家のエミール・ベルナール、ピカソ、セザンヌ、ゴーギャン、印象派の画家の作品を多数買い上げた画商ポール・デュラン=リュエルらに紹介し、自らヴァラドンに銅版画、特にソフトグラウンド・エッチングの技法、さらにはドライポイントや油彩の技法も指導した。1895年にドガの紹介により、画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初めての個展が行われた。 1896年にポール・ムージスと結婚し、コルトー通り(フランス語版)12番地に居を構えた。100メートル程度の小路であり、数メートル離れた6番地は1890年からサティが住んでいた(サティは1898年に越すことになる)。また、12番地は現在、モンマルトル美術館がある地所であり、一家はここに1905年まで住むことになるが、後にヴァラドンがムージスと離婚してユトリロの友人で21歳年下のアンドレ・ユッテル(フランス語版)と再婚した後、この場所に再び移り住むことになる(2014年にこのアトリエが復元され、モンマルトル美術館の一部として一般に公開された)。ムージスはまた、パリ近郊のモンマニー(フランス語版)(ヴァル=ドワーズ県)にも邸宅を構えていたため、一家はモンマルトルとモンマニーを行き来していた。 ムージスの経済的支援により、ヴァラドンは制作に専念することができた。ユトリロは祖母マドレーヌが住むパリ近郊のピエールフィット(現セーヌ=サン=ドニ県)のモラン寄宿学校に預けられ、オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を受けた。だが、すでに10代からアルコール依存症になり、サン=タンヌ精神病院に入院した。退院後にモンマニーの邸宅に移り住んだユトリロにヴァラドンは絵を描かせた。少しでもアルコールから気を逸らせたいと思ったからである。ユトリロは《モンマニーの3本の通り》、《モンマニーのティユール大通り》などを制作した。「白の時代」より前のこの時期の印象派の絵は「モンマニーの時代」と呼ばれることがある。
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